川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

花曇 485 石川貞清

朝、雨が降っていたのでランは休みました。嫁さんの学校の図書館・司書の方はいっぱい本を紹介してくれるようで、僕も読みたくなるような本を借りてきました。

「日本史1200人」485 石川貞清(サダキヨ;?〜1626)

安土桃山時代の武将・大名、豊臣氏の譜代の家臣、犬山城主、江戸時代前期の商人、後に江戸幕府御家人豊臣秀吉に使番(戦場での伝令・監察役)として仕え「金切裂指物使番(秀吉の指物旗は金の旗で縁を切り裂いてあった)」に列せられた。1600年、関ヶ原の戦いにおいては西軍に与し犬山城に籠城し、さらに城を棄てて西軍本隊に合流し、宇喜多隊の右翼に陣して奮戦した。敗戦後は所縁の深い池田輝政の陣に投降した。改易されて死罪を申し渡されるところだったが、人質を解放したことと、輝政の働きかけにより、黄金千枚で助命された。京で隠棲し、剃髪して宗林と号し、茶人・商人(金融業)として余生を過ごした。

「ああ金旗(キンキ)!今は金貸し花曇 石川貞清 に 端遊」

花曇(ハナグモリ)が4月の季語です。桜の花が咲く頃の曇天をいいます。とにかく余生を過ごせたのですから、当時の敗戦の武将としては上出来だったかな・・・1613年、幕府に扶持米500石を給されて召抱えられたと「徳川除封録」にあります。これは徳川家康の側室となっていたお亀の方からの報恩の意味かとされています。子孫は商人となりました。

習字は、「ああ金旗!」はスッキリと、「今は金貸し」は少し複雑に、「花曇」は大胆に、というつもりで書きました。


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花篝 484 佐久間盛政

朝、善福寺川沿いを走ってきました。嫁さんは同級生とのライン交流に右往左往しています。

「日本史1200人」484 佐久間盛政(モリマサ;1554〜1583)

安土桃山時代の武将・大名。母は柴田勝家の姉で、織田信長重臣佐久間信盛の甥に当たる。豪勇をもって「鬼玄蕃」などと呼ばれた。信長の命によって主に北陸征討戦に軍功をあげ、加賀半国の守護職を与えられた。途中、信長による叔父・信盛の追放のため閉居したが、改めて柴田勝家に仕え、加賀・尾山城主となった。本能寺の変で信長が横死し、勝家と豊臣秀吉の対立がはっきりすると勝家方についた。賤ケ岳の戦において、勝家がすぐ兵を引くよう命じたが盛政はそれに従わず、秀吉本隊と戦い生け捕られた。秀吉は「以後、味方をすれば命を助けよう」といったが拒絶し、勝家が自刃したあと、京中を引きまわされ処刑された。

「花篝鬼の涙を照らすなよ 佐久間盛政 に 端遊」

花篝(ハナカガリ)が4月の季語です。夜桜見物のための篝火です。盛政は4月に生け捕りにされています。鬼の看板を下ろせずに処刑されたんだろうな・・・秀吉は盛政の名誉を重んじ、切腹を命じましたが、「願わくば、車に乗せ、縄目を受けている様を上下の者に見物させ、一条の辻より下京へ引き回されればありがたい」と述べたとされます。

習字は、「花篝」はサラリと、「鬼の涙を」は悔しく、「照らすなよ」は恥ずかしく、というつもりで書きました。


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草餅 483 別所長治

土曜日・日曜日は横笛の練習と「アーネスト・サトウの日記抄2」の読書で過ごしました。今日の朝は雨が降っていたのでランを休みました。

「日本史1200人」483 別所長治(ナガハル;1558〜1580)

戦国大名。12歳の時、父・安治が没すると叔父・吉親を後見役に家督を継いだ。別所氏は織田信長に従っており、家督を相続した長治は17歳で信長に謁見し、その後たびたび挨拶している。しかし、1578年に織田氏から離反し、三木城に立て籠もり毛利氏に通じた。これは秀吉や信長に不信を抱いていた叔父の勧めによるものといわれる。秀吉はすぐに三木城攻めを行い、支城は次々と失われていった。途中、毛利氏や本願寺からの援軍もあったが「三木の干殺し(ヒゴロシ)」と呼ばれる兵糧攻めが本格化し、籠城開始から2年後に長治・友之(弟)・吉親の切腹と引き換えに城兵を助命するとの条件で開城を決めた。秀吉からの贈物で最後の宴を催した後、長治は妻子や弟らとともに自害した。

「干殺しの別れの宴は草餅 別所長治 に 端遊」

草餅が4月の季語です。蓬と餅米を一緒に搗いたものです。せめて草餅をいっぱい食べたかな・・・三木城跡の上の丸公園には、辞世「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば 」の歌碑と、近年寄贈された騎馬武者石像が立てられています。

習字は、「干殺しの」は強く、「別れの宴」は悲しく、「は草餅」は静かに、というつもりで書きました。


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鳥交尾む(ツルム) 482 筒井順慶

昨夜は昔の仕事友だちと若い女性も参加して、三人で楽しいお酒をたくさん頂きました。で、朝のランは休みました。それから、嫁さんが気になる同級生に、なんと声をかけたらいいかを話し合いました。

「日本史1200人」482 筒井順慶(ジュンケイ;1549〜1584)

大和国戦国大名。筒井氏は興福寺に属する有力宗徒が武士化し、父親・順昭の代には大和最大の武士団となっていた。父が28歳で病死したため、2歳で家督を継いだが1564年に後見の叔父が死去すると、松永久秀に奇襲を受け、順慶は筒井城を追われた。1566年、順慶は三好三人衆と結託して筒井城の奪還を果たした。この頃、織田信長が台頭し1568年に足利義昭を奉じて上洛した。久秀はすでに信長に誼を通じていたが、順慶は1571年に明智光秀の斡旋で信長に臣従した。やがて久秀と信長の関係は破綻し、順慶と久秀は衝突を繰り返していく。そして1577年、順慶は久秀の信貴山城攻めの先鋒を務め、城は陥落し久秀父子は切腹または焼死した。本能寺の変では自重し、光秀死後は秀吉の家臣となり、大和の所領は安堵された。

「鳥交尾む(ツルム)儂ら突っつく命がけ 筒井順慶 に 端遊」

鳥交尾む(ツルム)が4月の季語です。鳥は命を生むため、順慶・久秀は命を奪うためです・・・小牧・長久手の戦いの時、順慶は胃痛を訴え床に臥していましたが、出陣を促されて転戦し、大和に帰還して程なく病死しました。

習字は、「鳥交尾む」は楽しく、「儂ら突っつく」は強く、「命がけ」はそれなりに、というつもりで書きました。


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四月馬鹿 481 北畠具教

朝、善福寺川沿いを走ってきました。昨夜、ロイヒつぼ膏をふくらはぎに貼ったせいか、足取り軽く走れました。嫁さんは男子同級生を君付けか、ちゃん付けかどちらで呼ぶか迷っています。

「日本史1200人」481 北畠具教(トモノリ;1528〜1576)

戦国大名・公家、伊勢国北畠家の第8代当主。北畠家の支配範囲を順調に広げていき最盛期を築き上げた。1563年に父の晴具が死ぬと喪に服して、嫡男の具房に家督を譲って隠居したが、実権は握っていたようである。1569年、信長自ら北畠領内への侵攻を開始した。奮戦したが兵数に大きな差があり、50余日に及ぶ抵抗の末に降伏する形で和睦した。降伏の条件として信長の次男・茶筅丸(織田信雄)を養嗣子として迎え入れた。しかし、具教と側近達は信長に心服しておらず、1572年、西上作戦の途上であった武田信玄に上洛の際には協力するという密約を結んでいた。そして1576年、具教は信長と信雄の命を受けた旧臣らの襲撃を受けて、子や家臣と共に殺害された。これにより戦国大名としての北畠氏は滅亡した。

「猪口才な!養嗣子などと四月馬鹿 北畠具教 に 端遊」

四月馬鹿が4月の季語です。どんな嘘をついても許される日です。養嗣子(ヨウシシ)とは家督を継ぐ養子ですが、この信勝を迎えた後の5月に、具教はよほど馬鹿げたと思ったか出家しています・・・具教は剣術を好み、修行の旅をする剣客を保護・援助しました。自身も塚原卜伝に剣や兵法を学び、彼は卜伝から奥義である一の太刀を伝授されたといわれます。

習字は、「猪口才な」は強く、「養嗣子などと」は弱く、「四月馬鹿」は馬鹿らしく、というつもりで書きました。


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寄居虫 480 六角義賢

朝、雨だったので習字を書いてからランに行くことにしました。嫁さんは木工クラフト・美術・演劇・ボランティアなどいろんなクラブに入りたいようです。

「日本史1200人」480 六角義賢(ヨシカタ;1521〜1598)

近江国守護大名、南近江の戦国大名、六角氏15代当主、観音寺城主。13代将軍・足利義輝や姉婿の細川晴元を助けて三好長慶と戦い敗戦し続けたが、1558年に義輝を京都に戻し面目を保った。また、浅井久政の離反・侵攻を一時は撃退したが1560年に大敗を喫し、義賢の権威は低下し出家して承禎と号した。1568年、織田信長足利義昭を奉じて上洛を開始すると、三好三人衆と通じて戦い和睦した。1572年、甲賀郡から再度出陣してゲリラ戦を展開したが、1574年には甲賀郡信楽に逃れた。そして1581年、伊賀も信長に平定され、同年に承禎はキリシタンの洗礼を受けている。その後、承禎は豊臣秀吉の御伽衆となった。

「ゲリは黒お伽は赤じゃ寄居虫じゃ 六角義賢 に 端遊」

寄居虫(ヤドカリ)が4月の季語です。体の成長に合わせて巻貝を変えます。義賢は坊主にもキリシタンにもなっています。お伽は話し相手をすることです・・・承禎のゲリラ戦に手を焼いた信長は、付近の寺院をことごとく放火し、近在の百を越える村々に今後、六角氏に味方しないよう起請文を提出させています。

習字は、「ゲリは黒」は強く、「お伽は赤じゃ」は楽しく、「寄居虫じゃ」はそれなりに、というつもりで書きました。


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囀って 479 松永久秀

朝、善福寺川沿いを走ってきました。お腹を壊したのは、自分で作った浅漬けのせいだと分かりました。嫁さんは良い友達にいっぱい恵まれたようです。

「日本史1200人」479 松永久秀(ヒサヒデ;1510〜1577)

大和国戦国大名、松永弾正(ダンジョウ)の名で知られる。初めは三好長慶に仕えたが、やがて三好政権内で実力をつけた。久秀は長慶の配下であると同時に室町幕府第13代将軍・足利義輝の傍でも活動した。長慶の死後は三好三人衆と離合集散を繰り返し、畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となった。織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、一度は降伏して家臣となったがやがて対立し、反信長勢力と呼応して、本願寺攻めから勝手に離脱し、信貴山城に立て籠もり対決姿勢を明確にした。信長は10万の軍勢を送り込み信貴山城を完全に包囲させた。久秀は名器・平蜘蛛を叩き割って天守に火をかけ自害し果てた。

「偉いんだ!派手に死ぬぞ!と囀って 松永久秀 に 端遊」

囀ってが4月の季語です。雄の求愛・縄張り争いで鳴きます。久秀は縄張り争いで吼えたんだろうな・・・久秀は“名器・古天明平蜘蛛を城外へ出すように”との求めに「平蜘蛛の釜と我が首の2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする」と返答したとされ

ます。

習字は、「偉いんだ!」は偉そうに、「派手に死ぬぞ!と」は強く大胆に、「囀って」は幼く、というつもりで書きました。


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