川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

鳥交(サカ)る 131 後冷泉天皇

 昨日、浜で嫁さんと飲んだ酒が、しっかり効いて、朝は2時間遅れで起きました。疲れが残っていましたが、バイクを漕いでシャワーを浴びたら何とか元気が出て来ました。

「日本史1200人」の第131番の後冷泉天皇(1025〜1068)です。

70代天皇後朱雀天皇の皇子。母は道長の娘の嬉子。政治の実権は頼道に握られ、娘寛子を皇后としたが、遂に皇子は生まれなかった。3人の后がいた唯一の天皇とされるが、藤原氏外戚とする皇子は生まれなかった。1059年に皇子は誕生したものの、母親が内裏女房で菅原氏の僧の娘だった影響か養子に出された。天皇は即位早々に荘園整理令に着手するが、結果的にはやはり権門擁護策に終わる。

「鳥交(サカ)る忖度せずにイイナァ〜 後冷泉天皇 に感じて」

鳥交(サカ)るが4月の季語です。春は鳥の発情期です。天皇は何も考えずピーチクパーチクの鳥を羨ましかったろうな・・・頼通は一人娘の寛子に皇子誕生の望みをかけ、皇太弟(後三条天皇)を冷遇したが、後冷泉天皇崩御により、異母弟で藤原氏を直接の外戚としない後三条天皇が即位することになる。

習字は、「鳥交る」は楽しげに、「忖度せずに」は情けないように、「イイナァ〜」は羨ましげに、というつもりで書きました。アルコールが残って疲れていたので、チョッと妥協しました。


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万愚節 130 後朱雀天皇

 朝、隣町に行き二人でいつものコースを楽しく走り・おしゃべりして来ました。嫁さんと、今日の夕方は浜にお酒でも持って行って、ゆっくりしようかと話しています。

「日本史1200人」の第130番の後朱雀天皇(1009〜1045)です。

69代天皇一条天皇の皇子。母は藤原道長の娘の中宮彰子。兄・後一条が崩御したため、その後を受けて即位した。即以前は、道長の六女で叔母にあたる嬉子が入内して第一王子(後冷泉天皇)が生まれるが、嬉子は産後の肥立ちが悪く2日後に急逝した。その後道長の外孫で従姉妹の禎子が入内し第二王子(後三条天皇)始め一男二女を出産する。即位後は、関白頼通が養女嫄子を、弟教通が娘生子を、また頼宗が娘延子を相次いで入内させたが、いずれも皇子を出産することはなかった。

「万愚(バング)節忖度しても出来ぬぞヨ 後朱雀天皇 に感じて」

万愚節が4月の季語です。エイプリルフールのことですが、11月1日の諸々の聖人を祝う万聖節に対比しています。後朱雀天皇は跡継ぎを巡る狂乱を万愚節と思ったかな・・・この時期、荘園の増加によって国家財政が危機的状態にあり、1040年に荘園整理令に着手しますが、結局は頼通ら権門擁護策に終わります。肩の悪性腫瘍により譲位し、太上天皇となり、その2日後に出家し、同日崩御します。

習字は、「万愚節」は強弱を付けて、「忖度しても」は弱く、「出来ぬぞヨ」は困ったように、というつもりで書きました。


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一人静 129 後一条天皇

 一昨日から、池澤夏樹編・日本文学全集27・近現代作家集Ⅱを読んでいます。読書の時間を増やすため、英語の量を少し減らすことにしました。昨夜は足が攣って1時頃から眠れず、4時に起きました。朝のランは思ったより走れ、ほぼいつものペースでした。

「日本史1200人」の第129番の後一条天皇(1008〜1036)です。

68代天皇一条天皇の皇子。三条天皇の譲位により数え8歳で即位。母は藤原道長の娘・中宮彰子で、中宮の威子は道長の娘である。幼帝のため道長とその長男の頼道が摂政となり権勢を振るった。外戚の地位を藤原氏以外に渡すまいという藤原頼通と母彰子の意向により、この時代には珍しく他の妃を持たず、皇子女は内親王二人のみで世継ぎの皇子には恵まれぬまま、数え29歳で崩御した。糖尿病によるものと考えられている。

「囲まれて一人静にゲームかな 後一条天皇 に感じて」

一人静が4月の季語です。山林で木に隠れるように咲いています。お偉い藤原氏に囲まれて、8歳で即位の天皇はゲームでもしたくなるんじゃないかな・・・後一条天皇は突然の崩御であったため、譲位の儀式が間に合わず、喪を秘して弟の敦良親王への譲位(後の後朱雀天皇)の儀を行ったとされている。これが、在位中に天皇崩御した場合に喪を秘して譲位の儀を行い、その後に上皇としての葬儀が行われるようになった先駆とされる

習字は、「囲まれて」はガッチリと、「一人静かに」は幼く弱く、「ゲームかな」は無表情に、というつもりで書きました。


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長閑 128 一条天皇

朝、マインドフルネスの音楽を聴きながら、海沿いをロングランして来ました。土・日は軽いジョグなので、足が軽く快適に走れました。それから、土・日は久しぶりに本をたっぷり読みました。

「日本史1200人」の第128番の一条天皇(980〜1011)です。

66代天皇花山天皇が内裏を抜け出して出家したため、数え年7歳で即位した。これは孫の早期即位を狙った藤原兼家の陰謀と言われる。在位は25年に及んだ。一条天皇の時代は道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し、皇后定子に仕える清少納言中宮彰子に仕える紫式部和泉式部らによって平安女流文学が花開いた。天皇自身、文芸に深い関心を示し「本朝文粋」などに詩文を残している。音楽にも堪能で、笛を能くしたという。また、人柄は温和で好学だったといい、多くの人に慕われた。大変な愛猫家であり、愛猫に「命婦おとど」と名付け五位の位階を与えていた事が「枕草子」、「小右記」に記述されている。

「長閑なり命婦おとど背伸びして 一条天皇 に感じて」

長閑が4月の季語です。命婦は女官の総称でおとどは敬称なので、愛猫はタマなんて感じではないですね・・・「愚管抄」に、天皇崩御後、道長・彰子は天皇の遺品の整理中に一通の手紙を発見し、その中には「三光明ならんと欲し、重雲を覆ひて大精暗し」と書かれていて、「道長一族の専横によって国は乱れている」という意味に解した道長はその文を焼き捨てたということです。

習字は、「長閑なり」は細く控えめに、「命婦おとど」は柔らかく強弱をつけて、「背伸びして」は猫が背伸びしたように、というつもりで書きました。


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鶯餅 127 村上天皇

 朝、バッハのチェロ無伴奏組曲を聴きながら海沿いをロングランして来ました。シャワーを浴びて体重を測定したら、56.0kgと目標を達成していました。ビックリしました。

「日本史1200人」の第127番の村上天皇(926〜967)です。

62代天皇醍醐天皇の皇子。第十四皇子ながら、母が中宮であるため重んじられ、946年に朱雀天皇の譲位により即位する。天皇親政を実施し「天暦の治」として後世景仰された。村上天皇は「大鏡」の逸話で有名である。ある時清涼殿の前にあった梅の木が枯れてしまった。都の外れの家に見事な紅梅が見つかり、主命であることを告げて移植されたその紅梅を、天皇がふと見るとそこに短冊が結ばれている。「勅命とあらばたいへんおそれ多いことなのでお断りはできませんが、もしこの紅梅に毎年巣を作るウグイスが帰ってきて我が家はどうなってしまったかと尋ねられたら、さて私はどのように答えたらよいのでしょう」とあった。この歌の作者は紀貫之の娘の紀内侍(きのないし)であること、そして父の死後その紅梅を父の形見として慈しんでいたことがわかった。それを知った天皇は「さても残念なことをしてしまったものだ」といったという。

「お詫びです鶯餅はお洒落かな 村上天皇 に感じて」

鶯餅が4月の季語です。鶯は2月ですが餅は4月です。巣を無くしたウグイスの代わりに鶯餅じゃ洒落にならないかな・・・村上天皇は文治面では、「後撰和歌集」の編纂を下命したり、内裏歌合を催行し、歌人としても歌壇の庇護者としても後世に評価されています。また「清涼記」の著者と伝えられ、琴や琵琶などの楽器にも精通し、平安文化を開花させた天皇といえます。

習字は、「お詫びです」は控えめに、「鶯餅は」は強弱をつけて柔らかく、「お洒落かな」はお洒落なように、というつもりで書きました。最後の「洒落」は洒落にならない位、書きました。


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亀鳴いて 126 朱雀天皇

朝、ランは久しぶりに休みました。休むと、休み癖がつくのではと思っていたのですが・・・新年度からは、とにかく楽しく素直にやっていこうと思います。 

「日本史1200人」の第126番の朱雀天皇(923〜952)です。

61代天皇醍醐天皇の皇子。母后は怨霊を恐れて、3歳になるまで幾重にも張られた几帳の中で育てたという。醍醐天皇崩御後に8歳で即位する。藤原忠平が摂政・関白として補佐したが、関東における平将門の乱、瀬戸内海における藤原純友の乱(承平・天慶の乱)が起こり、政情は不安定だった。治世中はこのほかにも富士山の噴火や地震・洪水などの災害・変異が多かった。また病弱のためか入内した女御はわずか2人であり、在位中には皇子女に恵まれなかった。

「亀鳴いて乱も祟りも忘れたい 朱雀天皇 に感じて」

亀鳴いてが4月の季語です。亀は鳴かないと思います。有りえないトボケた事のように使えればと思いました。何だか不幸ばっかりなので、こんな感じに呟いたかな・・・朱雀天皇は24歳で譲位し太上天皇となります。その後、後悔して復位の祈祷をしたとも言われています。952年に出家して仁和寺に入り同年、30歳で崩御しました。

習字は、「亀鳴いて」はトボケたように、「乱も祟りも」は強く、「忘れたい」は弱く、というつもりで書きました。


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霞 125 醍醐天皇

朝、サイモンとガーファンクルを聴きながら、海沿いをロングランして来ました。アマゾンに注文した柿ピーは、ピーナッツ無しを頼んでしまいました。

 「日本史1200人」の第125番の醍醐天皇(885〜930)です。

60代天皇宇多天皇の皇子。臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源維城といった。父帝の訓示を受けて藤原時平菅原道真を左右大臣とし、政務を任せる。34年間にわたり、摂関を置かずに形式上は親政を行って数々の業績を収めたため、後代に「延喜の治」として謳われた。しかし901年、時平の讒言を容れて菅原道真大宰府に左遷した昌泰の変は、聖代の瑕と評された。跡継ぎにと考えていた子・孫が次々に亡くなり、菅原道真の怨霊の仕業と噂されたため、923年に道真を右大臣に復したうえ贈位を行ってその慰霊に努めた。しかし930年に清涼殿落雷事件が起きるとこれ以後体調を崩し、いよいよ病が重くなって譲位し、その7日後に出家すると同日崩御した。

「霞から道真ボワァン麿はポク 醍醐天皇 に感じて」

霞が3月の季語です。水蒸気が昇り、野山や谷・空までもかすませます。春は霞、秋は霧です。怨霊が信じられていた時代なので、本当に怖かったでしょうね。菅原道真の件は、近年では天皇と時平による宇多上皇の政治力排除のための行動だったと考えられています。醍醐天皇律令政治の復興に努め、「古今和歌集」「延喜格式」「日本三代実録」の編集にも携わっています。

習字は、「霞から」はサラリと、「道真」は強弱をつけて、「ボワァン」は大胆に、「麿はポク」は弱く、というつもりで書きました。


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