川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

極暑 43 アイスキュロス

 朝、海沿いを近くの友と途中までウォーキングしてから、一人でロングランして来ました。島が小さいので、海が夜中に日中の暑さを取ってくれるので、朝はいつも清々しいです。

「世界史1200人」43 アイスキュロス(前525〜前456)

古代ギリシア三大悲劇詩人の一人で最も古い。「ペルシア人」「オレスティア」などが有名である。二十代から作劇を始め、紀元前484年に初の優勝を得てからは、ディオニュシア祭で開催された劇大会で合計13回優勝した。5割を超える非常に高い優勝率を誇ったことになる。作風については三部作構成を好んで用いたこと、大言壮語とも言える大胆な比喩と荘重な詩句、ゼウスの正義の称揚が特徴的である。カメを岩へ落として食べるヒゲワシに、頭を岩と間違えられカメを落とされたという伝説的な死因が伝わっている。

「極暑かな亀が頭に悲劇の詩 アイスキュロス に 端遊」

極暑が7月の季語です。暑さが極まったら、亀激突の死があり、亀激突の詩がかけるかな・・・と思いました。アイスキュロスの生涯について伝えられていることはあまり多くないですが、マラトンの戦い、サラミスの海戦に従軍したことはよく知られています。マラトンの戦いについては、彼がこの戦いに参加したことを生涯の誇りにしていました。アイスキュロスの一族もまた作家として有名になりました。

習字は、「極暑かな」は歪んだように、「亀が頭に」はデザイン的に、「悲劇の詩」はサラリと、というつもりで書きました。


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蓮 42 ピンダロス

朝、近くの友と途中までウォーキングしてから、ロングランして来ました。シャワーを浴びてから体重を測定したら53.5kgと、先週より0.2kg増えていました。今の体重が走りやすく、53kg代を維持していければと思っています。

「世界史1200人」42 ピンダロス(前518〜前438)

叙情詩人。オリンピアなどギリシア四大祭典の祝勝歌が有名である。勝利者の素晴らしさ・神々の加護・驕りへの戒めを中心として、複雑な韻律と荘厳な表現は合唱叙情詩の頂点である。ピンダロスは孤高の詩人でもあり時勢に超然として生きた。「戦いは知らざる人には甘美なれど、知る人はその近づくをあまりにも怖れる」と歌った彼は、ペルシア戦争の際には愛国の歌を作ることなく中立を守り、その後のアテナイの発展や学問に関心を持たず、信仰を守りピュタゴラス神秘主義に近い世界観に止まった。最後にはアルゴスの地で愛する少年テオクセノスの手に抱かれ80歳の生涯を閉じた。

「勝利なお神々の加護蓮に座す ピンダロス に 端遊」

蓮(ハス)が7月の季語です。花言葉「神聖・雄弁」と「仏教で極楽に咲く花」をピンダロスに掛けました。「なお」は「そうは言っても」の意味で使いました。彼の詩は古伝によると17巻ありますが、現存するのは最初の4巻の競技勝利歌のみで、あとは断片として残っています。作品は神話の部分とピンダロス自身の世界観をあらわした部分が軸となります。複雑な韻律と荘重な表現が連続し、読者は断続する詩想について行くことが容易ではなく、後継者を持たなかった理由でもあるそうです。

習字は、「勝利なお」はスッキリと、「神々の加護」は力強く、「蓮に座す」は行草で、というつもりで書きました。


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夜半の夏 41 アナクレオン

朝、近くの友は今日も少し早くからスタートしていました。やっと追いついて少し話し、それから一人でロングランして来ました。体重が減ったせいか10年位前の走りができました。 

「世界史1200人」41 アナクレオン(前570〜前485)

叙情詩人。小アジアのテオス生まれ。ペルシアの侵略によって故郷を去り、市民とともにアブデラの町を建設した。その後、各地の僭主(武力で王位を奪い帝王と名乗る者)たちに招かれて、市民からも親しまれた。アナクレオンは古代イオニア方言で詩を創作した。全ての初期抒情詩の様に、作品は通常竪琴による音楽に合わせて唄われた。アナクレオンの作品は独唱歌で唄われたものが多い。詩の大部分は、酒・美少年・乙女・恋を歌った軽快なもので、豊かな情緒と鋭い感受性に恵まれて広く愛された。

「夜半の夏弾け竪琴を酒よ恋 アナクレオン に 端遊」

夜半の夏が7月の季語です。暑さが去った夏の夜です。過ごしやすくつい夜更しをしてしまいます。彼の詩は断片が百数十編残っており、その韻律を模倣して後代につくられた短詩60編余も伝わり、後の詩人たちにも大きな影響を与えました。アテネアクロポリスに彼の像が建てられ、テオスのコインにも竪琴を持った立像、座像が描かれています。

習字は、「夜半の夏」はスッキリと、「弾け竪琴を」は強弱を付けて、「酒と恋」はおおらかに、というつもりで書きました。


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熱帯夜 40 サッフォー

朝、隣町に行き、二人でいつものコースを楽しくウォーキングし、おしゃべりして来ました。

「世界史1200人」40 サッフォー(前612〜前570)

女流叙情詩人。サッフォーは生前から詩人として著名であり、シケリア島に亡命の時期に彫像が立てられたという。またプラトーンは彼女を「十番目のムーサ」とも呼んでいる。ムーサとはアポローンに仕える9柱の芸術の女神である。エーゲ海レスボス島で、彼女によって選ばれた少女しか入れないある種の学校を作り、詩や音楽・舞踊を教えた。また、少女たちへの情熱あふれる詩を残し、レスビアン(レスボスの女)の言葉の元となったとされる。彼女自身は結婚して娘がおり、夫の死後に少女たちの学校をつくった。美しく豊かで、力強い詩は広く長く愛好された。

「熱帯夜レスボスの花匂い立ち サッフォー に 端遊」

熱帯夜が7月の季語です。むせ返るような暑さの夜です。そんな時こそ少女たちの園は匂いたちそうです。サッフォーの詩はエジプトのアレクサンドリア図書館に所蔵されていました。これは、キリスト教ギリシア哲学・科学を「聖書を冒涜するもの」として迫害し、ギリシアの学者たちがエジプト属州へ逃げて学問を続けていたためです。 しかし、そのエジプトにもキリスト教の力が及び、サッフォーの詩もまた失われました。

習字は、「熱帯夜」は少し粘っこく、「レスボスの花」はデザイン的に、「匂い立ち」はサラリと、というつもりで書きました。


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含羞草 39 ヘシオドス

朝、海沿いをロングランして来ました。寝坊をしたと、近くの友が帰りの途中から一緒になりました。 今日の夕方、図書室設置委員会に出席します。良い図書室が出来ればと思っています。

「世界史1200人」39 ヘシオドス(前700頃)

ホメロスと並び称される叙事詩人。農民の立場で書いた「仕事と日」が有名である。「神統譜」で世界の始まりを書く。「仕事と日」は勤勉な労働を称え、怠惰と不正な裁判を非難する作品である。同書には世界最初の農事暦であると考えられる部分のほかに、説話、航海術、日々の吉兆などについて書かれた部分がある。短編「ホメーロスとヘシオドスの歌競べ」によれば、戦争と武勇を讃える「イーリアス」を歌い聞き手の胸を熱くさせるホメーロスに対し、ヘシオドスは牧歌的な「仕事と日」を歌った為に、平和な詩を愛する時の王によって勝利を与えられた。

「勤勉と怠惰を綾に含羞草 ヘシオドス に 端遊」

含羞草(オジギソウ)が7月の季語です。一年草で夜になると葉を合わせてしまいます。手で触れても葉を萎ませます。花言葉「繊細な感情」も含め、「仕事と日」の詩人ヘシオドスに掛けました。父親は小アジアの町キュメの商人でしたが、破産して寒村アスクラに移り住み、開拓農家として農耕に励みました。アスクラの東にはムーサ崇拝の地であるヘリコーン山があり、「神統記」によれば、ヘシオドスが羊を飼っているとき、突然にムーサが詩人としての才能を与えたといいます。

習字は、「勤勉と」は直線的に、「怠惰を綾に」は曲線的に、「含羞草」はサラリと、というつもりで書きました。


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月涼し 38 ヘロドトス

朝、一緒にランしようと近くの友の家に行ったら、チョッと見てほしい原稿があるとのことで、今日はランを少しにしました。

「世界史1200人」38 ヘロドトス(前485〜前425)

ヘロドトス小アジア(トルコ)の名家に生まれた。キレネ(北アフリカ)からエジプト・フェニキア黒海北岸までの旅をし、そこでの見聞を豊富に交えて、ペルシアとギリシアの戦争を書き残した。タイトルはギリシア語で「調査・探求」を意味する「ヒストリエ」で、英語の history(歴史)の語源となった。諍いの原因として、絶対的権力のペルシア王と民主的ギリシアイデオロギーの相違であると言及している。作品の始まりで「偉大にして驚嘆すべき、栄誉なきともいえぬ事績の数々について、とりわけ何故互いに争い合ったかについて、忘れ去られぬよう探求したところを記す」として、極めて物語風に描いている。キケロをして「歴史学の父」と言わしめた。

「月涼し戦の大愚書き留める ヘロドトス に 端遊」

月涼しが7月の季語です。旅の中、月の涼しい夜に、色々と聞き知ったことを書き留めている姿をイメージしました。ヘロドトスは一般的に歴史家に分類されていますが、「歴史」本文において historia という単語は「調査」や「尋問」という意味で使用されています。ヘロドトス以前には historia が意味する「探求」とは神話や系譜・地誌に関することでしたが、これを「人間界の出来事」にまで広げた点が特筆されるという見解もあります。

習字は、「月涼し」はサラリと、「戦の大愚」は強く大胆に、「書き留める」は一字一字書くように、というつもりで書きました。


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トマト 37 ヒッポクラテス

 朝、近くの友と一緒にジョグをし、途中から1人ロングランして来ました。シャワーを浴びて体重を測定したら53.3kgと、先週より0.1kg減っていました。何となく嬉しい53kg代が続いています。

「世界史1200人」37 ヒッポクラテス(前460〜前370)

ヒッポクラテスは医師の子として、小アジア沿岸に近いコス島で生まれた。父から医学の手ほどきを受けた後、クニドス(現トルコ)の医学校で学んだ。その後は各地を渡り歩いたといわれるが、生涯について詳しいことは不明である。「医学の父」と呼ばれたヒッポクラテスの功績は、医学を原始的な呪術や迷信から切り離し、病気の原因を科学的に究明しようとしたところにある。人間は血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁からなるとし、これらの混合の変調で病気が起こると考えた。自然環境や政治環境が病気に及ぼす影響を重視し、臨床に際しては自然治癒力や食事を重んじた。著書には「ヒッポクラテス全集」「人間の自然性について」などがあり、「人生は短く、技芸は長し」の名言も有名である。

「トマト手に治癒の力を神に問う ヒッポクラテス に 端遊」

トマトが7月の季語です。トマトを健康食品の代表にしました。古代、神は自明であり、「神に問う」としたのは究明の真剣さを表現したく使いました。古代ギリシアの医学は、クニドス派とコス派(ヒポクラテス派)の二つの学派に分かれていました。クニドス派は診断を重視しましたが、当時ギリシアでは人の体を解剖することがタブーとして禁じられており、結果としてクニドス派は診断を誤ることも多かったといいます。一方、コス派は予後を重んじて、効果的な治療を施し大きな成果を上げました。

習字は、「トマト手に」はカタカナを活かしたように、「治癒の力を」はデザイン的に、「神に問う」はスッキリと、というつもりで書きました。


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