川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

春の波 258 親鸞

昨夜、2年前の習字を見たら、今よりも魅力のある字が多く、びっくりしました。今は上手く書こうとしすぎかな、と反省しました。今日の隣町のランは休みなので、一人で海沿いを走って来ました。 

「日本史1200人」258 親鸞(1173〜1262)

9歳で慈円のもとで出家し範宴と名乗り、比叡山で20年に及ぶ激しい修行をした。29歳で下山し、法然の弟子となったが、法然流罪連座して越後に配流された。僧籍を剥奪されたため、この時から親鸞と名乗った。親鸞は1211年に赦免されたが京には戻らず、東国で布教を行った。その教えは師の教えを一歩進めたもので「悪人」こそが阿弥陀仏の救いの対象であるとし、仏道修行を行えない農民や地方武士に広まり浄土真宗(一向宗)と呼ばれた。60歳になってから京に戻り「教行信証」などの著述に専念した。

「悪人も過ぎし日思う春の波 親鸞 に 端遊」

春の波が4月の季語です。穏やかに寄せ返す波です。気候もよくじっと物思いにふけりそうです・・・弟子の唯円親鸞の口伝をまとめた「歎異抄」には「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という有名な言葉があります。これは親鸞の「悪人正機説」を端的に表しており、浄土真宗のもとになっている思想です。

習字は、「悪人も」は強く、「過ぎし日思う」はスッキリと、「春の波」は柔らかく、というつもりで書きました。


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ひじき 257 法然

 昨夜は、与那国出身の女性が監督をした映画「ばちらぬん(忘れない)」を見て来ました。チョッと難解な映画でしたが、これからを期待したいと思いました。今日の朝は、一人で海沿いを走って来ました。今年初めての水シャワーを浴びました。

「日本史1200人」257 法然(1133〜1212)

美作国(岡山県)出身。9歳の時、土地争論から父・漆間時国が殺害されたが、父の遺言により仇討ちを放棄して仏門に入った。比叡山で天台教学学び、下山後は「南無阿弥陀仏」を唱えれば誰でも極楽浄土に往生できるという専修念仏を説いた。この浄土宗は地方武士や庶民、貴族にも広まり九条兼実らが帰依した。そして、急激に信徒が増大したため旧仏教側から排撃を受けた。1205年、後鳥羽上皇の留守中に院の女房たちが、法然門下の僧によって出家したとして怒りを買い、法然親鸞を含む主な弟子が流罪となった。配流先でも布教をし、赦免され京に戻った翌年没した。

「南無阿弥と唱えて流罪ひじき刈る 法然 に 端遊」

ひじきが4月の季語です。浅瀬の岩に密集して生え、乾燥して食用にします。法然讃岐国に配流されています。法然は死の直前に「一枚起請分」という遺言を記しました。専修念仏の教えに様々な解釈が生じ、トラブルを引き起こさないようにとの意味からです。学問も智者の振舞も必要なく、ただ「南無阿弥陀仏」を唱えるべしと明記されています。

習字は、「南無阿弥と」はスッキリと、「唱えて流罪」は無念に、「ひじき刈る」はサラリと、というつもりで書きました。


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亀鳴けり 256 後嵯峨天皇

 昨日は、「立花隆 宇宙からの帰還」を読んだりして過ごしました。今日は、朝3時に目が覚めてしまい、そのまま起きて、習字や英語をしたりして、海沿いを走って来ました。

「日本史1200人」256 後嵯峨天皇(1220〜1272)

88代天皇土御門天皇の子(邦仁王)。即位後4年の1246年に子の後深草天皇に譲位し、上皇となり院政を敷く。さらに1259年には後深草天皇に対し、弟である亀山天皇への譲位を促した。幕府が朝廷掌握を進める中で連携を深めて、宗尊親王を将軍として送り出した。後嵯峨上皇が、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子(後の後宇多天皇)を皇太子にして、治天の君(政務の実権を握る天皇上皇)を定めずに崩御した事が、後の北朝持明院統(後深草天皇の血統)と南朝大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなり、それが日本史における南北朝時代、更には後南朝まで続く200年に渡る大乱の源となった。

「南北の大乱兆す亀鳴けり 後嵯峨天皇 に 端遊」

亀鳴けりが4月の季語です。亀は鳴きませんが藤原為家の句が始まりといわれます。何となくとぼけた感じにしたく使いました。邦仁王(後嵯峨天皇)は承久の乱の前年の誕生であり、父・土御門上皇が土佐に流された後は苦しい生活を送り、20歳を過ぎても出家も元服もままならないという中途半端な状態に置かれていました。

習字は、「南北の」はスッキリと、「大乱兆す」は大胆にはみ出すように、「亀鳴けり」はとぼけて、というつもりで書きました。


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二人静 255 後堀河天皇

 朝、一人で海沿いを走って来ました。シャワーを浴びて体重を測ったら53.4kgと先週より0.5kg減っていました。

「日本史1200人」255 後堀河天皇(1212〜1234)

86代天皇高倉天皇の孫。承久の乱の後、幕府による後鳥羽天皇の血統排除により10歳で即位する。父・後高倉院による院政の中で過ごしたが、元来病弱であり、わずか23歳で崩御した。その崩御中宮・竴子の死から間もない時期だったため、かつて天皇から天台座主の地位を約束されたものの反故にされた僧正・仁慶の怨霊の祟りや、後鳥羽上皇の生霊のなせる怪異であるなどと噂されたといわれる。

「祟りでも二人静かに手をつなぎ 後堀河天皇 に 端遊」

二人静が4月の季語です。日陰を好んで咲きます。似たような一人静もあります。中宮・竴子との仲は良かったとのことです。茂仁王(後堀河天皇)は後鳥羽上皇の兄の三男です。また、茂仁の母の父は源頼朝の妹婿の叔父で、母は平頼盛の娘(平治の乱の際に源頼朝の命を救った池禅尼の孫にあたる)であり、鎌倉幕府にとって茂仁は望ましい存在であったようです。

習字は、「祟りでも」は大胆に、「二人静かに」はスッキリと、「手をつなぎ」は明るく、というつもりで書きました。


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花万朶 254 竹御所

 朝、一人で海沿いを走って来ました。ゆっくり走ることに少し慣れてきました。嫁さんは小学校に読み聞かせに行きました。今年度初めてですがウクライナの民話を持って行きました。

「日本史1200人」254 竹御所(1202〜1234)

源頼家の子、4代将軍・藤原頼経の妻。他の頼家の子が幕府の政争の中で次々に非業の死を遂げていく中で、祖母・政子の庇護のもと巻き込まれることを免れ、政子の死後にその実質的な後継者となる。唯一、源頼朝の血筋を引く生き残りであり、幕府の権威の象徴として御家人の尊敬を集め、彼らをまとめる役目を果たした。29歳で13歳の頼経に嫁ぎ、その4年後に懐妊したが、難産の末に男児を死産し、本人も死去した。これにより頼朝の直系子孫は死に絶え、源氏将軍の血筋は断絶した。

「花万朶明年の今夢に見る 竹御所 に 端遊」

花万朶が4月の季語です。満開の桜で枝がたわわになっている様子です。竹御所が難産の末に亡くなったのは8月です。「来年の今」だと現代すぎるので「明年」としました。藤原定家の日記「明月記」によると、竹御所の訃報がもたらされた鎌倉武士たちは激しく動揺し、京都にあった御家人はこぞって鎌倉に下ったといいます。定家はこのことに対し「平家の遺児らをことごとく葬ったことに対する報いであろう」と述べています。

習字は、「花万朶」はたっぷりと、「明年の今」は儚げに、「夢に見る」は切なく、というつもりで書きました。


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夜桜 253 宗尊親王

 朝、隣町に行き二人でいつものコースを楽しく走りおしゃべりをして来ました。ニラ・子供たち・島の将来などいろいろです。

「日本史1200人」253 宗尊親王(1242〜1274)

6代将軍、後嵯峨天皇の子。実権は無くそのため和歌の創作に打ち込むようになり歌会を何度も行い、武家を中心とする歌壇が隆盛を極め、有能な歌人が輩出された。鎌倉歌壇は「続古今集」にも影響を及ぼし、親王は最多入選歌人となっている。25歳となった1266年、謀叛の嫌疑をかけられて解任され京へ送還された。この時、御wくぁあs家人たちが鎌倉に馳せ集まり、北条教時は更迭に断固として反対し、時宗の制止を無視して、軍勢を率いて示威行動を行い、その軽率さを叱責された。

「夜桜でもう一杯のもう一句 宗尊親王 に 端遊」

夜桜が4月の季語です。宗尊は歌会を通じて「御家人たちが馳せ集まる」ような人望を得たのかな・・・後嵯峨天皇宗尊親王の将来を心配していましたが、執権・北条時頼も将軍家と摂関家の両方を支配する九条道家(頼嗣の祖父)を政界から排除したいという考えを持っていました。ここに天皇と時頼の思惑が一致したため、「皇族将軍」誕生の運びとなりました。

習字は、「夜桜で」は艶やかに、「もう一杯の」は酔って、「もう一句」はひねって、というつもりで書きました。


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朧月 252 藤原頼嗣

 土曜日のアルコールが未だ抜けないのか、今日もゆっくり起きました。いつもより1時間半くらい遅れて海沿いを走って来ました。後半に左足の調子が良くなりました。嫁さんはこれから島一周のピクニックです。

「日本史1200人」252 藤原頼嗣(1239〜1256)

5代将軍、藤原頼経の子、九条頼嗣ともいう。わずか6歳で将軍となり、7歳で16歳の北条経時の妹・檜皮姫を正室として迎えた。実権は北条氏にある、幼将軍であった。1246年に父・頼経が謀反の疑いで追放された後も鎌倉に留まった。しかし北条時頼が皇族の宗尊親王を将軍に迎えたため、14歳で将軍を解任され、母と共に京都へ追放された。父・頼経が赤痢で死去したのに続いて、頼嗣は麻疹により18歳で死去した。

「将軍が足をぶらぶら朧月 藤原頼嗣 に 端遊」

朧月(オボロヅキ)が4月の季語です。薄絹のベールに被われたかのような優しい月です。縁側で足をぶらぶらしている幼将軍を月が見ています・・・結果的に、父と共に北条家とは対立関係となりましたが、執権・北条時頼は頼嗣の教育に熱心であり、学問・武術それぞれに複数の教師を付けています。頼嗣も勉学への意欲は高く、帝王学の勉強会を行うなどしています。

習字は、「将軍が」は幼く、「足をぶらぶら」は暇なように、「朧月」は優しく、というつもりで書きました。


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