川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

海鞘(ホヤ) 265 道元

 昨夜も2日続けて足が4回くらい痙攣しました。で、朝は2時間遅れて起きました。ランを少し短く・お酒を少し少なく・ストレッチに足指グーを・マッサージ機は日に2回、を実行することにしました。

「日本史1200人」265 道元(1200〜1253)

曹洞宗開祖。13歳で比叡山に入り、14歳で出家し修行を始めたが「人は本来仏性を具えているといわれるのに、なぜ求道が必要なのか」という疑問を抱く。24歳で宋へ渡り曹洞宗禅師・如浄のもとで厳しい教導を受け、無限の修行が成仏の本質であること、修行とはただ坐禅に打ちこむこと(只管打坐)であると悟った。帰国後、曹洞宗を開き、京に興聖寺を開山して布教を始めたが、比叡山から圧迫を受け、越前国(福井県)に大佛寺(2年後に永平寺とする)を開山した。道元は、僧の生活は質素であるべしとして、後嵯峨天皇から授けられた高僧の証・紫衣を身につけることなく、墨染の衣を着ていた。また、執権・北条時頼が寺院建立を申し出た時も辞退した。

「海鞘(ホヤ)無言短足ピタリ只管打坐 道元 に 端遊」

海鞘(ホヤ)が5月の季語です。浅い海の岩肌に付着し、入・出水孔を持ち、水と一緒に餌を吸い込みます。無限の修行をしているようです。著書の「正法眼蔵」は生涯をかけた87巻の大作であり、全100巻の予定でしたが病のため完成しませんでした。仏教思想書として名高く、西洋哲学の研究者からも注目されています。

習字は、「海鞘無言」は曲と直で、「短足ピタリ」は細と太で、「只管打坐」ははみ出すくらいに、というつもりで書きました。


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繭を煮る 264 虎関師錬

昨夜は足が攣り、歯茎が傷んだせいもあり眠れませんでした。で、朝は1時間半くらい遅く起きて、英語や体操をしてから、一人で海沿いを走って来ました。足の攣りには体操を一つ増やしました。また、歯茎にはたっぷり薬を塗りました。

「日本史1200人」264 虎関師錬(1278〜1346)

8歳で臨済宗・東山湛照に師事して参禅し、同年比叡山にて受戒する。師を失った後は南禅寺円覚寺で修行したが、この間「文選(中国南北朝時代の詩文集 全30巻)」や易学を学ぶなど研鑚に努め該博な知識を得た。その後、円覚寺建長寺の会下に入る一方、仁和寺醍醐寺密教を学んでいる。1307年に鎌倉・建長寺の渡来僧・一山一寧を訪れた時、本朝の名僧の事績について尋ねられ、満足に応えられなかったことをきっかけとして、体系的な日本仏教史「元亨釈書(全30巻)」をまとめたといわれる。仏教伝来以来、鎌倉後期までの700年に及ぶ内容である。

「僧は縦教えは横に繭を煮る 虎関師錬 に 端遊」

繭を煮るが5月の季語です。糸を取るために繭を煮ます。仏教史を織るための準備という意味で使いました。師錬は1338年に東福寺住持を退いて、南禅寺住持となりましたが2年後に辞して東福寺海蔵院に退き、海蔵和尚とも呼ばれました。後、後村上天皇から国師号を賜っています。

習字は、「僧は縦教えは横に」は隷書風を混じえて、「繭を煮る」は大胆に、というつもりで書きました。


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安居 263 無学祖元

 朝、今日も雨なので、隣町のランは休み、バイクを漕ぎました。東京に行く予定が遅くなったので、チョッと気が抜けました。

「日本史1200人」263 無学祖元(1226〜1286)

南宋の禅僧、仏光禅師の名で知られる。1279年に北条時宗の招きによって来日し、建長寺円覚寺に兼住して日本の臨済宗に影響を与えた。その指導法は懇切で、老婆禅と呼ばれ、多くの鎌倉武士の参禅を得た。1281年の2度めの元寇である弘安の役に際して、その一月前に祖元は元軍の再来を予知し、時宗に「莫煩悩」(煩い悩む莫(な)かれ)と書を与えた。祖元によれば、日本が元軍を撃退した事に対して、時宗は神風によって救われたという意識はなく、むしろ禅の大悟(ダイゴ)によって精神を支えたとする。

「安居して大悟してはと老婆禅 無学祖元 に 端遊」

安居(アンゴ)が5月の季語です。夏の間、僧が一定の場所で修行することをいいます。「大悟しては」なんて気楽に言えないでしょうが、そこは老婆です・・・「無学祖元坐像」は 神奈川・円覚寺舎利殿の背後の開山堂に安置されています。1286年の示寂直後に作られたとみられます。眼差しは鋭いながら口元は優しく、今にもこちらに語りかけそうな迫真性を持ち、鎌倉時代肖像彫刻の中でも、傑作中の傑作と評されています。

習字は、「安居して」はスッキリと、「大悟してはと」は大胆に、「老婆禅」は柔らかく、というつもりで書きました。


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出目金 262 蘭渓道隆

 朝、一人で海沿いを走って来ました。折り返し地点で知人と一声二声話したら元気が出ました。雨も降ってきました。

「日本史1200人」262 蘭渓道隆(1213〜1278)

南宋の禅僧。1246年に来日し、北条時頼の帰依を受けて鎌倉に建長寺を開いた。鎌倉仏教・臨済宗を広め、多くの弟子を育成した。元寇の際には密偵と疑われたり、讒言により甲斐国(山梨県)に流されたりしたこともあるが、建長寺に帰り死去した。肖像画では黒目の周りを金泥で縁取り、肖像彫刻でも瞳の中心の黒の周囲に放射線上に金泥線を引いている。こうした目への拘りは、雲水たちを厳しく見つめる蘭渓道隆の眼光表現だと考えられる。

「雲水よ慎み励め出目金ぞ 蘭渓道隆 に 端遊」

出目金が5月の季語です。金魚は中国から渡来したと伝えられています。目の周りから金の光を発するような蘭渓道隆に掛けたダジャレです・・・鎌倉五山第一位の建長寺は、1886年に修業僧の学校・宋学林を設立しました。現在の鎌倉学園中学校・高等学校の前身であり、卒業生に堺正章桑田佳祐らがいます。

習字は、「雲水よ」はサラリと、「慎み励め」は強く、「出目金ぞ」は可笑しく、というつもりで書きました。


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卯の花腐(クタ)し 261 栄西

このところ寒い日が続いています。ゴールデンウィーク中は観光客で明るく賑わうのですが、今年はちょっと違う感じです。今日の朝も雨が降っていたのでバイクを漕ぎました。

「日本史1200人」261 栄西(1141〜1215)

禅宗を日本に初めて伝えた臨済宗の開祖。14歳で出家し比叡山天台宗を学んだが1168年、堕落した天台宗を立て直すべく、平家の庇護を得て南宋に留学した。そして「天台章疎」60巻を持って帰国したが、南宋では禅宗が繁栄しており、日本仏教の精神の立て直しに禅を用いることを決意した。1187年に再び入宋し、臨済宗印可(悟りを得た証明)を受け、帰国後は既存仏教との調和を図りながら布教に努めた。禅宗は座禅によって鍛錬し、公案と呼ばれる問題を禅問答で考え抜いていくものであるが、その精神修養性が武家社会に受け入れられ、北条政子の帰依を受け寿福寺の住職となる。その後、源頼家の加護で京に建仁寺を建立した。

公案卯の花腐(クタ)し答えは無 栄西 に 端遊」

卯の花腐(クタ)しが5月の季語です。卯の花を腐れさせるような長雨のことです。5月の歳時記の中で?の季語でした。で、僕が最初に見た公案の答えが「無」でした。卯の花腐しは人の想いで、卯の花も雨も無では、などと呆けました・・・栄西は、宋から茶の種を持ち帰り、栽培を奨励したことでも知られています。茶に関する著書「喫茶養生記」があります。

習字は、「公案は」は大げさに、「卯の花腐し」はサラリと、「答えは無」はカクッと、というつもりで書きました。


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春の宵 260 一遍

 昨日の夕方は、嫁さんと浜で夕陽を見ながらお酒を飲みました。この島に居るんだなァ〜と感じました。今日の朝は一人で海沿いを走って来ました。シャワーを浴びてダンボールや本をゴミに出してから、体重を測ったら53.3kgと先週より0.1kg減っていました。

「日本史1200人」260 一遍(1239〜1289)

伊予国(愛媛県)に生まれ、10歳の時に天台宗で出家し、13歳で法然の孫弟子について浄土宗を学んだ。「南無阿弥陀仏」の念仏札を配りながら各地を転々としていると、ある僧から己の不信心を理由に念仏札の受け取りを拒否され大いに悩むが、熊野権現から、衆生済度のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告を受けた。この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定往生六十万人」と追加した。さらに各地を行脚し、1279年に踊り念仏を始めた。踊り念仏は尊敬してやまない市聖・空也に倣ったものといい、これは時宗と呼ばれ農民や地方武士に熱狂的に受け入れられた。

「不浄者(モノ)踊れや踊れ春の宵 一遍 に 端遊」

春の宵が4月の季語です。春の宵は浮き立って明るく、何となく艶めいている感じです。一遍は寺院に一切依存せず、死に際しては、「一代聖教皆尽きて、南無阿弥陀仏に成り果てぬ」と延べ、自身の著作を燃やしてしまったといいます。札を受けとり、勧進帳(入信者が記名する帳面)に名を記した人は、250万人に達したといわれます。

習字は、「不浄者」はスッキリと、「踊れや踊れ」は踊るように、「春の宵」は穏やかに、というつもりで書きました。


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春塵 259 日蓮

 昨夜は、停電するくらいの雷と、警報がでるくらいの大雨でした。幸い我が家は無事でしたが、二階は水浸しになったようです。朝は晴れたので、一人で海沿いを走って来ました。

「日本史1200人」259 日蓮(1222〜1282)

安房国(千葉県)に生まれ、12歳で近くの天台宗清澄寺に入り修業を始めた。その後、京都や奈良の寺で学び、法華経が釈迦の正しい教えとの結論に達し、救いの道は「南無妙法蓮華経」と法華経の題目を唱えることに説いた。日蓮は他宗を激しく非難しながら布教を行い、1260年「立正安国論」を著して5代執権・北条時頼に提出した。国難を避け平和実現のために日蓮宗を国教とせよと主張したため、かえって幕府から迫害され伊豆に流罪とされた。さらに1271年、蒙古襲来の予見により社会の不安を高め、幕府を非難した罪で、斬首されかけたが、直前で免れ佐渡流罪となった。

「南無妙を春塵のごと吐き散らし 日蓮 に 端遊」

春塵が4月の季語です。海からの風で塵が舞い上がり、わずかな隙間や目にも刺さるように入り込みます。そして他宗や幕府を非難する日蓮の口は「吐き散らす」の形容がピッタリの感じです。日蓮は1274年に赦免されて鎌倉に戻りますが、幕府に相変わらず主張が認められないため、甲斐国(山梨県)身延山へ隠棲しました。しかし、日蓮宗は関東の武士層・商工業者を中心に広まっていきました。

習字は、「南無妙を」は強くスッキリと、「春塵のごと」は塵が舞うように、「吐き散らし」はくどく、というつもりで書きました。


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