昨日の夜もご飯類を食べなかったので、朝は海沿いをゆっくりジョグして来ました。確かに70歳に近い老人が走るなんて、昔は全然考えていませんでした。
「日本史1200人」159 安倍頼時(?〜1057)
陸奥の土豪。貞任・宗任の父。奥州藤原氏の初代藤原清衡は孫。奥六郡(陸奥北部、衣川以北の胆沢、江刺、和賀、稗貫、紫波、磐井の六郡)で勢力を振るい、半独立勢力を形成して、朝廷への貢租を怠る状態となった。1051年に陸奥守が数千の兵を出して安倍氏の懲罰を試みたため、頼良(のちの頼時)は俘囚らを動員して国衙領へ侵攻し、国府側を撃破した(前九年の役)。朝廷は源頼義を新たに陸奥守に任命して派遣するが、翌1052年、藤原彰子の病気快癒祈願のために安倍氏に大赦が出された。頼良は頼義と名の読みが同じことを遠慮して「頼時」と改名した。
「帝となそれがどうした針槐(ハリエンジュ) 安倍頼時 に 端遊」
針槐(ハリエンジュ)が5月の季語です。ニセアカシアの別名です。白い蝶形の花を咲かせますが、枝には棘が有ります。そして、不思議ですがアカシアの別名でもあります。名を変えても最後まで戦った頼時に掛けました。後の1056年、頼義軍の部下の営所を何者かが夜襲したとされ、頼時追討の宣旨が下りました。1057年、反旗を翻した一族の安倍富忠勢に奇襲を受け、流れ矢を受けて深手を負い本拠地の衣川を目前に鳥海柵で没しました。
習字は、「帝とな」はスッキリと、「それがどうした」はふてぶてしく、「針槐」は強弱を付けて、というつもりで書きました。