朝、一人で海沿いをロングランして来ました。足が軽く、少し早いスピードで入ったので、途中でバテるかなと思いましたが、ガクンと落ちることはなく、最後まで楽しく走れました。
「世界史1200人」96 カラカラ(188〜217)
本名はアントニヌスでセウェルスの子。カラカラとは帝が好んで着たフード付き上着のこと。父の死後、弟のゲタと二帝統治を行うが争いが絶えず、211年、カラカラは母が用意した和解の場で弟を殺害するという凶行に及んだ。ゲタは駆けつけた母親の腕の中で息絶えたが、カラカラは厚顔無恥にも「弟から身を守った」と言った。暴政が本格化するのは東方属州へ移住した213年からとなる。巨費を投じて街中に自分の別荘や劇場を建て、資金が足りなくなると裕福な商人や貴族の財産を没収したり、法外な重税を強いたりした。東方属州最大の都市であるアレクサンドリアでは、カラカラが実の弟を殺害したことを揶揄する詩が流行した。この噂を聞きつけたカラカラ帝は、民衆の誤解を解く場を持ちたいと提案し、弁明を聞くために集まった民衆を兵士に虐殺させた。更に、数日間にわたって市内を徹底的に破壊して民衆を殺戮した。2万名以上の住民が殺害されたという。カラカラはカルラエ近郊の神殿に向かう途中、軍列を止め、道端で放尿している所を、後ろから刺されて絶命したとされている。暗殺理由は個人的なもので、数日前に親族が無実の罪で処罰されたことに対する復讐であったとされる。
「カラカラの虐殺の地に芒群れ カラカラ に 端遊」
芒が9月の季語です。荒地によく群れ咲いています。「カラカラ」は殺伐とした擬音として使いました。巨大な公共浴場(カラカラ浴場)を建設して淫蕩にふけったこと、アレクサンドロス大王の再来を自称して各地に遠征して軍事費がかさみ、税増収のため帝国内の全自由民にローマ市民権を与えた(アントニヌス勅令)ことなどでも有名です。
習字は、「カラカラの」は乾いた感じで、「虐殺の地に」は一画毎に力を込めて、「芒群れ」はサラリと、というつもりで書きました。一画毎に力を込めることが、少しできました。