川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

追儺 204 崇徳天皇

 朝、足が疲れていたので、英語と体操をしてから、もう一度寝ました。今日は晴れているのに雨が降ったりしています。

「日本史1200人」204 崇徳天皇(1119〜1164)

75代天皇鳥羽法皇の子で母は待賢門院(藤原)璋子。曾祖父白河法皇の意により5歳で即位する。崇徳天皇は実は白河法皇が自分の養女である璋子に生ませた子との巷説もある。1129年、法皇が崩じて鳥羽上皇院政が始まると情勢は一変して、皇位を譲らざるを得なくなった。 1156年、鳥羽法皇の死去を機に挙兵した(保元の乱)が天皇側に敗れ、配所讃岐国にて失意のうちに崩じた。「保元物語」によると、崇徳院讃岐国で仏教に深く傾倒して五つの写本を朝廷に差し出したところ、同母・弟の後白河院はこれを拒否し送り返してきた。これに激しく怒った崇徳院は、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」と血で書き込んだ。

追儺とな麿の出自やトホホのホ 崇徳天皇 に 端遊」

追儺が2月の季語です。節分の夜に寺社で行う悪鬼払いです。昔は宮中の儀式でした。崇徳天皇の父は巷説のとおりかも・・・朝廷は崇徳院を罪人とする認識でいましたが、近親が相次いで死去し、安元の大火・鹿ケ谷の陰謀などが立て続けに起こると、後白河院は怨霊鎮魂のため「崇徳院廟」を設置するなどしました。崇徳院菅原道真平将門と並ぶ日本三大怨霊とされています。

習字は、「追儺とな」は大胆に、「麿の出自や」は抑えて、「トホホのホ」は情けなく、というつもりで書きました。恨みを込めたような「な」を、なかなか書けませんでした。


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