昨日は、「立花隆 宇宙からの帰還」を読んだりして過ごしました。今日は、朝3時に目が覚めてしまい、そのまま起きて、習字や英語をしたりして、海沿いを走って来ました。
「日本史1200人」256 後嵯峨天皇(1220〜1272)
88代天皇。土御門天皇の子(邦仁王)。即位後4年の1246年に子の後深草天皇に譲位し、上皇となり院政を敷く。さらに1259年には後深草天皇に対し、弟である亀山天皇への譲位を促した。幕府が朝廷掌握を進める中で連携を深めて、宗尊親王を将軍として送り出した。後嵯峨上皇が、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子(後の後宇多天皇)を皇太子にして、治天の君(政務の実権を握る天皇・上皇)を定めずに崩御した事が、後の北朝・持明院統(後深草天皇の血統)と南朝・大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなり、それが日本史における南北朝時代、更には後南朝まで続く200年に渡る大乱の源となった。
「南北の大乱兆す亀鳴けり 後嵯峨天皇 に 端遊」
亀鳴けりが4月の季語です。亀は鳴きませんが藤原為家の句が始まりといわれます。何となくとぼけた感じにしたく使いました。邦仁王(後嵯峨天皇)は承久の乱の前年の誕生であり、父・土御門上皇が土佐に流された後は苦しい生活を送り、20歳を過ぎても出家も元服もままならないという中途半端な状態に置かれていました。
習字は、「南北の」はスッキリと、「大乱兆す」は大胆にはみ出すように、「亀鳴けり」はとぼけて、というつもりで書きました。