川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

春の果て 138 文屋康秀

朝、ハーモニカを聴きながらロングジョグをして来ました。波が岩にぶつかりゴォーッと響く音が聞こえ、台風が向かっていることを感じさせました。 

「日本史1200人」の第138番の文屋康秀です。

歌人六歌仙三十六歌仙のひとり。「古今和歌集」の序に、ことばの巧みな歌人と評されているが、昇進はできなかった。小野小町と親密だったといい、三河掾として同国に赴任する際に小野小町を誘ったという。それに対し小町は「わびぬれば 身をうき草の 根を絶えて 誘ふ水あらば いなむとぞ思ふ」(=こんなに落ちぶれたので、根なし草のように、誘いの水さえあれば、どこにでも流れてお供しようと思います)と歌を詠んで返事をしたという。後の説話集に、この歌をもとにした話が載せられるようになった。

「春の果て相合い傘と見得を切る 文屋康秀 に感じて」

春の果てが4月の季語です。康秀も小町も春の時はとっくに過ぎました。「せめて相合い傘で見得を切るかァ〜」と意気投合しました・・・康秀の次の歌は、まさに老いの侘しさを歌っています。

「春の日の光にあたる我なれど 頭の雪となるぞわびしき」

訳;晴がましい春の日の光にあたる私ですが、頭髪が雪を被ったように白くなっているのが遣りきれない気持です。

習字は、「春の果て」は控えめに、「相合傘と」は柔らかく、「見得を切る」は勢いよく、というつもりで書きました。


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都踊り 137 喜撰

 朝、海沿いをロングランして来ました。足を休めていたので、久しぶりに快適に走れました。シャワーを浴びて体重を測ったら55.7kgと、先週より1.5kg減っていました。驚きでした。

「日本史1200人」の第137番の喜撰(キセン)です。

僧、歌人六歌仙三十六歌仙のひとり。伝承では山城国乙訓郡の生まれとされ、出家後に醍醐山へと入り、後に宇治山に隠棲しやがて仙人に変じたといわれる。次の二首のみが伝えられる。

「わが庵は都の辰巳しかぞ住む世を宇治山と人はいふなり」

「木の間より見ゆるは谷の蛍かもいさりに海人の海へ行くかも」

約1千年後の江戸・歌舞伎舞踊「喜撰」は、喜撰法師が女性を口説く踊りで、坂東三津五郎家が代々得意とした。

「仙人が都踊りに口説き舞う 喜撰 に感じて」

都踊りが4月の季語です。舞妓さんが歌舞練場で踊りの公演を行います。仙人となった喜撰があの世から都踊りを見に来て、浮かれて口説き踊りを踊ったとイメージしました。なお、喜撰は歌学書「喜撰式」の作者と伝えられますが、今日では平安時代後期の偽書と見られています。また、「無名抄」によれば、宇治市の御室戸の奥に喜撰の住みかの跡があり、歌人必見であるそうで、喜撰洞という小さな洞窟が山腹に残っています。

習字は、「仙人が」は楽しそうに、「都踊りに」はスッキリと、「口説き舞う」はおどけた感じで、というつもりで書きました。字の配置が難しく、今日も何枚も書きました。


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花の頃 136 遍昭

朝、雨が降っていたのでバイクを漕ぎました。この頃、何だか足が疲れた感じなので 、両膝にサロメチールを塗りました。

「日本史1200人」の第136番の遍昭(ヘンジョウ816〜890)です。

歌人天台宗の僧。桓武天皇の孫。仁明天皇の死を悲しみ出家する。円仁・円珍に師事し、花山の元慶寺を建立し、869年には紫野の雲林院別当を兼ねた。885年に僧正となり、花山僧正と呼ばれるようになる。六歌仙三十六歌仙のひとり。遍昭の歌風は、出家後は紀貫之が評したように物事を知的にとらえ客観的に描く軽妙洒脱な歌を多く作ったが、出家前には情感あふれる歌も詠んでいる。特に「百人一首」にある「天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ」には遍昭の真情が現れているといえる。歌集「遍昭集」がある。

「僧正も花の頃あり色好み 遍昭 に感じて」

花の頃が4月の季語です。花の咲く頃≒若い頃と掛けました。遍昭には、在俗時代の色好みの話や、出家に際しその意志を妻にも告げなかった話、霊験あらたかな僧であった話などが多くの逸話が残っています。

習字は「僧正も」は強く、「花の頃あり」は控えめに、「色好み」はおおらかに、というつもりで書きました。昨日の練習作が気に入ったのでこれを載せることにしました。


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花篝花 135 在原業平

 朝、隣町に行き、久しぶりに二人でウォ−キングをして来ました。友は痛風をきっかけに、長い間運動を休んでいたので、ウォ−キングから始めることにしました。

「日本史1200人」の第135番の在原業平(ナリヒラ825〜880)です。

桓武天皇の曾孫。貴族、歌人。昔から美男の代名詞とされる。紀貫之が「その心余りて言葉足らず」と評したことで有名であるが、情熱的な歌をつくる。六歌仙三十六歌仙のひとりで勅撰和歌集に多くの歌が入っている。後の源氏物語や和歌に大きな影響を与えた「伊勢物語」は彼を主人公とした歌物語とされてきた。子・孫もみな歌人として知られる。兄・行平ともども鷹狩の名手でもあったと伝えられる。

「花篝花より麿が映えてるゥ 在原業平 に感じて」

花篝が4月の季語です。夜桜に風趣を添えるために焚く篝火です。花篝の側に立った業平の思わずの独り言をイメージしました。業平は晩年には蔵人頭という要職にも就き、兄・行平ともども政治的には中枢に位置しており、「伊勢物語」の「昔男」のような高尊の生まれでありながら反体制的な貴公子というイメージとはチョッと違うようです。

習字は、「花篝」はスッキリと、「花より麿が」は柔らかく、「映えてるゥ」はとぼけて、というつもりで書きました。


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花吹雪 134 小野篁

朝、英会話を聞きながら、海沿いをロングランして来ました。ゆっくり走るどころか、歩くことがやっとでした。歳なのか、疲れているのか・・・午後は嫁さんと教育委員会に、本を返し・借りに行きました。すごく大きな本を借りたので、足とバイクで本を挟んで帰って来ました。チョッと危ない技でした。

 「日本史1200人」の第134番の小野篁(タカムラ802〜852)です。

公卿。学者、歌人小野妹子の子孫で漢詩和歌に秀でる。「令義解」の編集に参加。遣唐副使となるが、遣唐大使・藤原常嗣の第一船が損傷し、篁の乗る第二船を第一船としたことに対して、己の利得のために他人に損害を押し付けるようなことが罷り通るなら、部下を率いることなど到底できないと抗議し、さらに自身の病気や老母の世話が必要であることを理由に乗船を拒否した。後に、篁は遣唐使の事業を(ひいては朝廷を)風刺する漢詩を作り、このために隠岐に配流されるが、後に許されて参議となる。書においても当時天下無双で、草隷の巧みさは王羲之・王献之父子に匹敵するとされた。身長六尺二寸(約188cm)の巨漢でもあった。

「花吹雪一緒に行くかテヤンでぇ 小野篁 に感じて」

花吹雪が4月の季語です。潔さで日本人の心情を代弁する桜吹雪です。遣唐使船を拒否した時、隠岐に配流され時「テヤンでぇ」と叫んだかな・・・830年に父が没した際は、哀悼や謹慎生活が度を過ぎて、身体容貌が酷く衰えてしまうほどだったそうです。また、非常な母親孝行である一方、金銭には淡白で俸禄を友人に分け与えていたため、家は貧しかったといいます。危篤の際に子息らに対して、他人に知らせずにすぐに葬儀を行うように、と命じたともされています。

習字は、「花吹雪」はスッキリと、「一緒に行くか」は控えめに、「テヤンでぇ」は勢いよく、というつもりで書きました。


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李散る 133 橘逸勢

 朝、海沿いをロングランして来ました。行きは油が切れたようにぎこちなく、帰りにやっと普通に走ることができました。土・日は夏目漱石森鴎外太宰治谷崎潤一郎坂口安吾を読みました。やっぱり僕と同世代前後の人がいいなと思いました。

「日本史1200人」の第133番の橘逸勢(ハヤナリ?〜842)です。

書家、官人。804年、最澄空海らと共に遣唐使となる。840年に但馬権守に任ぜられ、後に老いと病により静かに暮らしていたが、842年に謀反を企てているとの疑いで、伴健岑と共に捕縛された。両者は杖で何度も打たれる拷問を受けたが、共に罪を認めなかった。しかし、逸勢は姓を「非人」と改めた上で伊豆国流罪が決まった(承和の変)。逸勢は伊豆への護送途中に60余歳で病没した。この時、逸勢の後を追っていた娘は途中で父の死を知り、悲歎にくれ、父を埋葬し、尼となり墓の近くに草庵を営み、菩提を弔い続けた。

「非人では何に化けるか李散る 橘逸勢 に感じて」

李散るが4月の季語です。白い五弁の花を咲かせます。花言葉は誤解です。悲しすぎるので頓狂な句にしました。無実の罪を背負って死亡した逸勢は、怨霊となったと考えられ、863年に御霊会において祀られました。現在も上御霊神社下御霊神社で祀られています。遣唐使時代は中国語が苦手で、語学の負担の少ない琴と書を学ぶことになり、帰国後はそれらの第一人者となりました。特に書は柳宗元に学び、三筆のひとりです。

習字は、「非人では」はちょっと崩れた感じで、「何に化けるか」は強く大きく、「李散る」は弱く、というつもりで書きました。


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風光る 132 清原夏野

 朝、雨なのでバイクを漕ぎました。シャワーを浴びて体重を測ったら57.2kgと先週より1.2kg増えていました。水を飲み、トイレは行かずに測ったのですが・・・簡単に1kgは変わっちゃうな。

「日本史1200人」の第132番の清原夏野(ナツノ782〜837)です。

貴族、政治家。小倉王の子。清原の姓を与えられ臣下となった。桓武天皇から仁明天皇まで仕え右大臣まで昇進した優秀な実務家。「令義解」を編纂し、日本法制史に大きな足跡を残した。政治・経済にも明るく、824年、国司に関して1・2度入京して天皇に施政を報告すること、常荒田の耕食を許すことを提言・採用される。826年、多数の親王家を維持する財源確保のため、諸親王を地方の国守に任じる制度を設立。832年、私財を投じて播磨国に魚住泊を建設。朝廷は重要性を認め助成を行う。

風光る国の形を透かし見る 清原夏野 に感じて」

風光るが4月の季語です。明るい太陽のもとで、全てが風とともに光っています。夏野の明晰な思考に掛けました。夏野は平安京右京の双岡に山荘を営みましたが、この山荘へは830年に淳和天皇が、834年には嵯峨上皇行幸して水木を鑑賞しています。

習字は、「風光る」はスッキリと、「国の形を」は大胆に大きく、「透かし見る」は控えめに、というつもりで書きました。「国の形を」を何枚か工夫したのですが、初めに戻ってしまいました。


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