川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

ポピー 272 無住

朝、今日も雨なのでバイクを漕ぎました。そして今日も寒いのでパジャマを着ています。こんな時に来た観光客は「損したなァ〜」という感じです。 

「日本史1200人」272 無住(1226〜1312)

臨済宗の僧。他宗にも深く通じ、平易な文体で書かれた仏教説話集「沙石集」の著者としても有名である。様々な宗派を学びながらも、どの宗派にも属さなかった理由については、自分の宗派だけが正しいと考えるのは間違いで、庶民は諸神諸仏を信仰していて、場合によって祀るものが異なり、そうした平和的共存を壊すのは間違った仏教の行き方だと考えていたためとされる。また、説法の対象は読み書きのできない層だった。

「神仏の教え優しくポピー咲く 無住 に 端遊」

ポピーが5月の季語です。たくさんの種類・色が楽しめ、花言葉「いたわり・思いやり・陽気で優しい」は無住の教えにピッタリです。「沙石集」は54歳の時に執筆し、数年かけて5巻を完成させましたが、死ぬまで手を加え続けて全10巻となり、どれが無住の考えた最終的な本かを判断するのは難しいとされます。「徒然草」や江戸時代の落語などに影響を与えました。

習字は、「神仏の」は素朴に、「教え優しく」は柔らかく、「ポピー咲く」はサラリと、というつもりで書きました。


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クレマチス 271 重源

朝、今日も雨なのでバイクを漕ぎました。最高気温が22℃は3月並みです。パジャマを着ています。 

「日本史1200人」271 重源(1121〜1206)

真言宗・浄土宗の僧。3度宋に渡り、多くの仏像・経典や土木技術などを日本に伝えた。1181年、60歳を過ぎてから、平氏焼き打ち後の東大寺復興の大勧進職に任じられ、募金から建築までの一切を指揮し、14年後に大仏殿の落慶法要を行った。復興のためには時には強引な手法も用い、協力の約束を違えれば現世では「白癩黒癩(重度の皮膚病)」の身を受け、来世では「無間(ムゲン)地獄」に堕ちて脱出の期はないという恫喝的な文言を示している。東大寺には、重源の遺徳を称えるための「俊乗堂」があり、国宝の重源上人坐像が祀られている。

「優しげに上人坐像はクレマチス 重源 に 端遊」

クレマチスが5月の季語です。美しく優しげな花ですが、葉や茎から出る液には毒性が有り「策略」の花言葉を持っています。募金のために時には策略を用いた重源に掛けました。「精神の美」という花言葉も持っており、これもピッタリです・・・重源は自らも中国で建築術を習得したといわれ、自ら巨木を求めて山に入り、道を切り開き、川に堰を設けるなどして長さ39m・直径1.6mもの巨大な木材を奈良まで運び出したといいます。

習字は、「優しげに」は柔らかく、「上人坐像は」は素朴に、「クレマチス」はチョッと毒を含んで、というつもりで書きました。


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メーデー 270 忍性

 朝、今日も雨でバイクを漕ぎました。シャワーを浴びて体重を測ったら54.6kgと先週より1.5kgも増えました。雨で室内にいることが多いせいかな、と思いました。とにかく数字で出るので、チョッと気をつけようと、すぐに思えるところがいいです。

「日本史1200人」270 忍性(1217〜1303)

真言律宗の僧、叡尊の弟子。戒律復興に努め、鎌倉・極楽寺を開く。また、ハンセン病患者を救済するための福祉施設北山十八間戸」を建てるなど、慈善事業を行い、土木事業にも力を尽くした。忍性が生涯で草創した伽藍83ヶ所、建立した塔婆20基、図絵した地蔵菩薩1355図、僧尼に与えた戒本3360巻、非人に与えた衣服33000領、架橋した橋189所、修築した道71所、掘った井戸33所などにのぼるとされている。

「慈悲慈善イイ汗かいてメーデーだ 忍性 に 端遊」

メーデーが5月の季語です。事業の数を見ると忍性はもう労働者の感じです。師の叡尊は「良観房ハ慈悲ガ過ギタ」と、忍性が布教に力を入れすぎて学業が疎かになっていると苦言も呈しています。真言律宗真言宗とも律宗とも一線を画していくことになるのには、忍性の役割が大きいと言われています。

習字は、「慈悲慈善」はスッキリと、「イイ汗かいて」は大胆に明るく、「メーデーだ」は強く、というつもりで書きました。


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更衣(コロモガエ) 269 俊芿

 朝、隣町に行き、二人でいつものコースを楽しく走りおしゃべりをして来ました。西表島産の美味しそうなパイナップルを頂きました。

「日本史1200人」269 俊芿シュンジョウ(1166〜1227)

18歳の時に出家剃髪し、大宰府観世音寺具足戒を受けた。戒律の重要性を痛感し1199年に中国・宋に渡り、13年間仏教を学んで帰国した。北京律(ホッキョウリツ)を起こし仙遊寺を寄進され、寺号を泉涌寺と改めて再興するための勧進を行った。後鳥羽上皇をはじめ多くの信者を得て喜捨を集め、堂舎を整備して以後、泉涌寺は律・密・禅・浄土の四宗兼学の道場として栄えて行く。

「律密も禅や浄土も更衣(コロモガエ) 俊芿 に 端遊」

更衣(コロモガエ)が5月の季語です。宮中での衣替えのことで、調度品などの替えも含みます。四宗を同じ道場でとなれば、各宗とも衣替えがあったかな・・・俊芿は書家としても知られ、その書名は宋朝においても高かったといわれます。筆跡としては「泉涌寺勧縁疏」と「附法状」が国宝として泉涌寺に現存します。泉涌寺は皇室との結び付きが強まっていき、南北朝時代から安土桃山時代までの歴代天皇の葬儀を一貫して執り行い、江戸時代に入ってからはさらに強まり、後水尾天皇から孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の葬儀を一貫して執り行いました。

習字は、「律密も禅や浄土も」は、それぞれの宗派の感じで、「更衣」はサラリと、というつもりで書きました。


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どぶ浚え 268 貞慶

 昨夜は一晩中雷雨でした。島では梅雨のしとしと雨は少なく、降る時はしっかり降る感じです。バイクを漕ぎました。

「日本史1200人」268 貞慶ジョウケイ(1155〜1213)

法相宗の僧。祖父・信西は一時権勢を得たが、1160年の平治の乱で自害させられ、また父も 土佐に配流された。幼い貞慶は望まずして興福寺に入り11歳で出家して法相・律を学んだ。学僧として期待されたが、僧の堕落を嫌って1193年、山城国笠置寺に隠遁した。僧侶の生活の乱れに対し戒律の復興に努め、法相教学の確立に大きな役割を果たした。その一方で朝廷の信任も厚く、勧進僧と力を合わせ、由緒ある寺社の復興にも大きく貢献した。

「堕落僧我がどぶ浚え法相(ホッソウ)ゾ 貞慶 に 端遊」

どぶ浚えが5月の季語です。流れが澱み悪臭を放つ水路や小川を清掃することです。法相は貞慶に掛けて使いましたが、「一人一人の世界」という感じに訳しました。貞慶は1205年に興福寺奏状を起草して法然の専修念仏を批判し、法然配流のきっかけを作りました。一方、貞慶の叔父の円照は法然に師事していました。

習字は、「堕落僧」は細く強く、「我がどぶ浚え」は大胆に強く、「法相ゾ」は控えめに、というつもりで書きました。


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忍冬(スイカズラ) 267 叡尊

 朝、一人で海沿いを走って来ました。久しぶりのロングランでした。家についたら雨が降ってきました。

「日本史1200人」267 叡尊(1201〜1290)

真言律宗の開祖。興正菩薩と称される。奈良・西大寺を中心に戒律の復興と民衆化を進め、一部の仏教宗派が救済対象としなかった女性や貧者、ハンセン病患者などへの慈善、宇治橋の修繕といった社会事業にも尽くした。このため非人・癩病者から皇族に至るまで、貴賎を問わず帰依を受けた。西大寺の末寺は全国で一時1500を超えた。元寇に際しては西大寺四天王寺などで、蒙古軍撃退の祈祷や鎮護国家密教儀典を行っている。

「非人癩皆んな仏と忍冬(スイカズラ) 叡尊 に 端遊」

忍冬(スイカズラ)が5月の季語です。山野に自生し冬の間も常緑なので忍冬と呼ばれています。花言葉「献身的な愛」にも掛けました。叡尊の本来の目的は、権力と結びつきすぎて生じた、真言宗僧侶の堕落からの再生のために、戒律の実践と研究を行う律宗の再興にありました。

習字は、「非人癩」は細いけど強く、「皆んな仏と」は大胆に柔らかく、「忍冬」はサラリと、というつもりで書きました。


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踊花(オドリバナ) 266 明恵

 日曜日は、バッハ・モーツアルトベートーヴェンの聴きたい曲をダウンロードしたりして過ごしました。全く凡人好みです。今日の朝は雨が降りそうだったのでバイクを漕ぎました。

「日本史1200人」266 明恵(1173〜1232)

9歳にして両親を失い、翌年、高雄山神護寺に入り、16歳で出家した。23歳で俗縁を絶って紀伊国・白上に遁世し修行をかさねた。遁世僧となった明恵は、後鳥羽上皇から下賜された地に高山寺を開山し、華厳と密教との統一をはかり華厳密教を打ち立てた。その教えは俗人が理解しやすいようさまざまに工夫されたものであった。明恵は、学問よりも実際の修行を重視し、厳しく戒律を護り、きわめて謹厳であった。その人柄は、無欲無私にして清廉、なおかつ権力を怖れるところがいささかもなかった。明恵は和歌にも長け「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月」などが知られる。

「戒律が目口手足か踊花(オドリバナ) 明恵 に 端遊」

踊花(オドリバナ)が5月の季語です。踊子草のことです。花の形が笠をかぶって踊っている人のようです。自然の(戒律に合う)姿が踊りなので、史上最も戒律を守った人とも評価される明恵に掛けました。白上での修行の頃には、少しでも如来に近づこうと、右耳の外耳を剃刀で自ら切り落としました。また釈迦への思慕の念から2度ほどインドへ渡ろうとしましたが、病気などのため断念しています。

習字は、「戒律が」はスッキリと、「目口手足か」はだんだん大きく、「踊花」はサラリと、というつもりで書きました。


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