川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

葉鶏頭 148 ユスティニアヌス

 昨夜1時間早く寝たのに、今朝は1時間遅く起きてしまいました。とにかく、一人で海沿いを走って来ました。帰ってシャワーを浴びて体重を測ったら52.3kgと先週より0.8kg減っていました。思わず目を見張ってしまいました。

 

世界史2章の「中世・近世・近代ヨーロッパ」に入ります。


「世界史1200人」148 ユスティニアヌス(483〜565)

東ローマ(ビザンツ)帝国最盛期の皇帝。農民の出身だが、伯父の皇帝ユスティヌス1世の養子となり、44歳で帝位を継いだ。ペルシアと和睦し、北アフリカヴァンダル王国、イタリアの東ゴート王国を滅ぼし、スペイン南部も獲得して領土を復活した。行政機関を全て皇帝直轄とし、産業や公共事業を推進し、「ローマ法大全」を編纂した。市民の反乱(ニカの反乱)も起こるが、妻・テオドラの支えで鎮圧し、巨大なハギア・ソフィア大聖堂を建設した。多方面で活躍し、不眠不休王とも呼ばれた。

「国興し不眠不休の葉鶏頭 ユスティニアヌス に 端遊」

葉鶏頭が9月の季語です。葉が紅・黄・橙・紫など鮮やかです。全てを鮮やかに仕上げていくユスティニアヌスに掛けました・・・大聖堂は1日5万人の労働者が5年間かけて完成しました。壮麗な仕上がりを見て、「ソロモンよ我は汝に勝てり」と感嘆したといいます。宗教的には、ローマ教会の上に皇帝を据える「皇帝教皇主義」の立場をとりました。

習字は、「国興し」はスッキリと、「不眠不休の」は直と曲で、「葉鶏頭」は大胆に、というつもりで書きました。


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秋刀魚 364 千利休

 朝、隣町に行き、二人でいつものコースを楽しく走り、おしゃべりして来ました。島にはホテルが無くなったので、お客さんが泊りがけで来た時には困るようになりました。

「日本史1200人」364 千利休、宗易とも(1522〜1591)

堺の商人で茶人。武野紹鴎に師事し、わび茶を完成して茶の湯を大成させる。利休が設計した茶室は二畳であり、狭く低い位置に作られた入り口から入室するには、刀を外し平身低頭しなければならない。茶、で交流する人々は、身分・貧富の差なく対等であるという意味である。茶人として名声と権威を誇り、秀吉の政事にも大きく関わり、大友宗麟豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と忠告された。織田信長豊臣秀吉に仕えたが、秀吉の怒りにふれ自刃を命じられた。原因は「自身の雪駄履きの木像を楼門の2階に設置し、その下を秀吉に通らせた」とする説が知られているが、「秀吉が黄金の茶室にて華やかな茶を点てさせた事に、不満を持った利休が信楽焼の茶碗を作成した」など、さまざまな説があり、詳しくは分かっていない。

「茶室では皆んなが秋刀魚でも死刑 千利休 に 端遊」

秋刀魚が9月の季語です。秋の大衆魚です。対等・平等のシンボルとして使いました・・・利休の死後、本家は実子・道安が継ぎましたが断絶しました。その後、利休の後妻の連れ子である少庵と、その子の宗旦が千家を再興し、宗旦の3人の子がそれぞれ千家の茶を受け継ぎました。

習字は、「茶室では」はスッキリと、「皆んなが秋刀魚」は幼く、「でも死刑」はフワリと、というつもりで書きました。


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さて、日本史2章が終わったので、世界史に行きます。

芋 363 武野紹鴎

 昨夜は突然、友に飲みに誘われ、東京から来た記者さんも交えて楽しく過ごしました。で、朝は1時間半遅れで起き、一人で海沿いを走って来ました。

「日本史1200人」363 武野紹鴎(1502〜1555)

堺の豪商で茶人、千利休の師匠。27歳の時、当時の最高の文化人であった三条西実隆を訪ね、古典や和歌についての教えを受け、30歳になるまで連歌師をしていたとされる。32歳の時「白鷺の絵」を見て、非常に美しい絵の表装を、あえて枯淡なものに差し替えた、村田珠光の茶道の茶味に目覚めたといわれる。紹鴎が目指した茶の湯の境地とは「枯れかじけ寒かれ」であったとされ、これは連歌師・心敬の言葉から引いたもので「木は枯れ、手はかじかみ、骨身に寒さが染みる」という情景である。歌道という、藤原定家らによって体系化された文化と、茶道が融合して芸術的な日本文化に昇華するに至ったともいわれる。

「芋一つその豊かさを歌に茶に 武野紹鴎 に 端遊」

芋が9月の季語です。芋が一つだけゴロン、それこそが豊かと、誰か歌ってないかな・・・わび・さびの由来である言葉「侘び」「寂び」も歌道由来の言葉・概念であり、これらを茶道の思想に持ち込んだのは村田珠光だともいわれますが、紹鴎が歌人でもあったことから、わびさびの概念を産み出したのは紹鴎ではないかともいわれます。

習字は、「芋一つ」はおおらかに、「その豊かさを」はサラリと、「歌に茶に」は明るく、というつもりで書きました。


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稗 362 村田珠光

 朝、一人で海沿いを走って来ました。帰って台風の状況を見たら、暴風域はなくなっていました。嫁さん今日東京に行っても良かったんだろうな、とは思いましたが、心配しないで済んだ分、18日に出て正解とも思いました。

「日本史1200人」362 村田珠光(1423〜1502)

茶の湯の開祖。11歳の時、奈良の浄土宗・称名寺に入り出家し、20歳以前に寺を出て、その後の経歴は不明である。 応仁の乱の頃には奈良に帰るが、寺には戻らずに東大寺の近くで庵を営む。この庵での茶の湯から「わび茶」が創始されたといわれる。臨済宗大徳寺一休宗純に参禅し、茶禅一味(茶と禅の求めるものは同一)を追求し、わび茶の精神をつくり出したともいわれる。古市播磨法師への「この道、第一わろき事は、心の我慢・我執なり。功者をばそねみ、初心の者をば見下すこと、一段勿体無き事どもなり・・・」の手紙は有名である。

「稗食ってゆったりお茶を侘び住い 村田珠光 に 端遊」

稗が9月の季語です。昔は食用にしていました。貧乏の象徴のような雑穀です・・・名物<珠光茶碗>とは、青くなるべき青磁が、技術的な不備で赤褐色になった中国民窯製の雑器です。四つの<珠光茶碗>のうちの一つを千利休が購入し、若かった頃の茶会で使用しました。

習字は、「稗食って」はサラリと、「ゆったりお茶を」はおおらかに、「侘び住い」はフワリと、というつもりで書きました。


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無月 361 後藤祐乗

昨日、台風を避けるため、嫁さんが20日の予定を繰り上げて東京に行きました。突然であっという間でしたが、無事着いて安心しました。今日の朝はいつものように、一人で海沿いを走って来ました。 

「日本史1200人」361 後藤祐乗(1440〜1512)

彫金家。後藤家の所伝によると、初め将軍・足利義政側近の軍士として仕えていたが、18歳の時に同僚からの讒言を受け入獄した。獄士に請うて小刀と桃の木を得て神輿(ミコシ)船14艘・猿63匹を刻んで見せたところ、その出来栄えに感嘆した義政によって赦免され、装剣金工を業とするように命じられたと伝えられる。江戸時代まで続く、後藤四郎兵衛家の祖となる。

「無月でも桃の木よ生め神輿船 後藤祐乗 に 端遊」

無月が9月の季語です。本来は8月15日の夜、全く名月が見えないことですが、真っ暗闇を借用しました・・・現存する祐乗の作品には自署のものは有りませんが、小柄(コヅカ)・笄(コウガイ)・目貫(メヌキ)の三所物(ミトコロモノ)が主で、良質な地金に龍・獅子などの文様を魚々子地(ナナコジ)に高肉彫で表したものが多いそうです。

習字は、「無月でも」はサラリと、「桃の木よ生め」は強く、「神輿船」はスッキリと、というつもりで書きました。


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名月 360 善阿弥

 朝、一人で海沿いを走って来ました。昨日、町からマルソン大会の案内が来たので、思わずチョッと早くなりました。帰ってシャワーを浴びて体重を測ったら53.1kgと先週より1.2kg減っていました。55kgを覚悟していたので、びっくりしました。

「日本史1200人」360 善阿弥

作庭師。被差別民(河原者)の出身であったが、築庭の名手とされ「蔭涼軒日録」には、将軍・足利義政の寵愛を受けて室町殿の築庭に当たった様子が記されている。当時75歳を過ぎていた善阿弥は、しばしば病に倒れるが、そのたびに義政は薬を贈り、医者を遣わしており、身分の差をこえて築庭という行為を通して深く結ばれていたことが伺われる。善阿弥の作庭の遺構はないが、当時の評論によると「奇絶」で見飽きることがない作風であった。

「築山(ツキヤマ)の名月を背に奇絶なり 善阿弥 に 端遊」

名月が9月の季語です。秋の清澄な夜はいつも名月です。一杯頂きながら奇絶な築山を愛でたいなァ・・・子の小四郎らも庭師として仕え、慈照寺(銀閣寺)の庭園は彼の子の二郎、三郎、および彼の孫の又四郎による作品です。河原者とは、河原を集落とする中世の被差別民を指します。さまざまな雑役に従事しましたが、高い技術を持つ人が少なくありませんでした。

習字は、「築山の」はスッキリと、「名月を背に」はサラリと、「奇絶なり」は大胆に、というつもりで書きました。


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千草 359 池坊専慶

 朝、一人で海沿いを走って来ました。足が重かったのですが、それなりに走ることが出来ました。嫁さんは台風で折れた草木の掃除をしました。

「日本史1200人」359 池坊専慶

京都・頂法寺(六角堂)の僧、日本最古の花道家元・池坊の祖。応仁の乱前の長禄・寛正(1457~66)の頃に立花(タテハナ)の名手として名を上げた。「碧山日録」には、武将・佐々木高秀の招きを受けた専慶が、金瓶に数十枝の草花を立てたところ、洛中の好事家がこぞって見物し感心したと記している。

「ちょんと切る千草びっくり池坊 池坊専慶 に 端遊」

千草(チグサ)が9月の季語です。秋の草花の総称です。名手が活けると、花は新たな生命を貰ったようです・・・僧侶・専慶は仏前供養の花から、観賞に堪える挿花へとその第一歩を踏み出し、芸術性を高め、後代の専応・専好らに技術を伝えました。

習字は、「ちょんと切る」はサラリと、「千草びっくり」はのびのびと、「池坊」は控えめに、というつもりで書きました。


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