川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

海開き 770 川村瑞賢

朝、海沿いを走って来ました。帰ってシャワーを浴びて体重を測ったら54.9kgと東京に行く前より1.6kg減っていました。フェリーがドッグ入りし、定期貨物船が故障して、島は食料が不足とのことで、昨日は買い出しにちょっとあせりました。それから隣町の友の家に帰島の挨拶をして来ました。

「日本史1200人」770 川村瑞賢(ズイケン;1618〜1699)

豪商、土木家、幕府の請負人。​伊勢国東宮村(三重県南伊勢町)の貧しい農家に生まれた。13歳前後で江戸へ出て、初めは車力などの肉体労働に従事したが、徐々に材木商として独立した。1657年の「明暦の大火」の際に木曽へ赴いて材木を買い占め、江戸の復興需要で巨万の富を得た。幕府に見込まれ、東北の年貢米を安全に江戸へ運ぶための「東廻り航路」「西廻り航路」を開拓・整備し、日本の広域海運網を確立した。さらに大坂の安治川開削をはじめとする淀川の治水工事などを成功させた。​晩年には功績が認められ、幕府の御家人に列せられた。

​「海開き米満載に西東 川村瑞賢 に 端遊」

海開きが7月の季語です。海の安全を神主が祈ります。句では航路の安全をイメージしました・・・瑞賢は霊岸島に居を構え、同郷の松尾芭蕉とも交流がありました。霊岸島に新たな川を開削する際に使われた測量の方法などは、彼の知識と数学的才能によるものだとされています。

習字は、​「海開き」はおおらかに、「米満載に」は嬉しく、「西東」はそれなりに、というつもりで書きました。


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炎天 769 末次平蔵

昨日の夕方島に帰りました。台風の被害はなく、防風戸・網戸・ガラス戸を水洗いし、床を雑巾がけして一段落しました。近くの友が家の周りの草を刈ってくれて大助かりでした。今日の朝は海沿いを走って来ました。

「日本史1200人」769 末次平蔵(ヘイゾウ;?〜1630)

豪商、長崎代官。末次平蔵家の初代。筑前国・博多の豪商末次興善の次男として生まれ、後に長崎に移住した。父の業をついで、シャム・安南(ベトナム)・台湾などに朱印船を派遣し巨富を築いた。1619年には長崎代官・村山等安のキリシタン庇護や不正を幕府に告発して失脚させ、代わって代官となり市政を掌握し、貿易面でも絶大な権力をもった。自身は元キリシタンであったが棄教していた。1623年以降オランダ人が台湾に進出すると、1628年にオランダの台湾長官ヌイツを人質にとり、貿易を一時ストップさせるタイオワン(台湾)事件を起こした。1630年、幕府重臣が関わる密貿易を知ってしまったことなどから江戸の牢獄に幽閉され、幕臣によって斬殺されたと伝えられるが、この死を契機にタイオワン事件は解決にむかった。

「タイオワン豪商の闇炎天に 末次平蔵 に 端遊」

​炎天が7月の季語です。焼けつくような空・天気のことです。炎天に晒せば残るのは欲・権益かな・・・ 平蔵の名は子孫に世襲され代官職を続けましたが、1676年の4代目の時に大規模な密貿易が発覚し家系は断絶しました。

習字は、「タイオワン」は弱く、「豪商の闇」は不気味に、「炎天に」は激しく、というつもりで書きました。


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夏の空 768 末吉孫左衛門

今日島に帰ります。充電して使うタブレットなどは手荷物にした方が良いようなのでそうすることにしました・・重いです。

「日本史1200人」768 末吉孫左衛門(マゴザエモン;1570〜1617)

大坂の豪商、名は末吉吉安(ヨシヤス)。家康から信を得て伏見銀座を創設し、千利休とも親しく交流があった父・末吉利方の子として生まれた。37歳で家督を継いだが、その前から銀貨鋳造機関の伏見銀座の頭役に名を連ね事業を主導した。大坂冬の陣・夏の陣は徳川家康に与し、軍勢の先導や普請工事を担った。両陣の直後に幕府より代官に任ぜられ、旗本としての身分を保証された。豊臣政権期から継続して朱印状を与えられており、末吉家による朱印船貿易は末吉船と称され、1604年〜1634年に派遣された朱印船22船のうち過半の12船が末吉船であった。主に呂宋(ルソン)や東京(トンキン)など東南アジア方面との貿易を行った。

「夏の空末吉船の出港じゃ! 末吉孫左衛門 に 端遊」

夏の空が7月の季語です。湧き上がる積乱雲、照り返す太陽、異国への出港にピッタリです・・・清水寺には末吉船の渡航祈願および航海の無事への感謝として奉納された末吉船の絵馬が現存しています。

習字は、「夏の空」は大きく明るく、「末吉船の」は強く、「出港じゃ!」は嬉しく、というつもりで書きました。

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川開き 767 角倉了以

朝、善福寺川沿いを走ってきました。新しいイヤホンが昨日注文して、その日のうちに届きました。明日島に帰ります。

「日本史1200人」767 角倉了以(リョウイ;1554〜1614)

京都の豪商。朱印船貿易の開始とともに安南国との貿易を行った。その仕事の帰りだともいうが、岡山の吉井川で平底舟をみて、地元の浅い川で使うことを着想し、幕府の許可を得て大堰川(=保津川)の整備と、川幅8m水深30cm程度の高瀬川を開削を行った。現在の価格で150億円の私財を投入したと考えられる一方で、通行料収入ですぐ元を取ったと言われる。また江戸幕府の命令により富士川・天竜川・庄内川などの整備を行った。地元京都では商人としてよりも琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名である。また、当時最も重要な輸入品であった中国の生糸の独占輸入・卸売権を得られる糸割符商人として幕府に認められ膨大な利益を得た。

「川開き私財ドーンと倍返し 角倉了以 に 端遊」

川開きが7月の季語です。川の納涼で安全を願う行事で、隅田川の花火が有名です。了以の木像は水運にドーンと投資してドーンと儲けるぞという顔付きです・・・自宅は現在の日本銀行京都支店の場所で、別邸はその通りを挟んで東、現在の飲食店がんこ高瀬川二条苑です。

習字は、「川開き」は楽しく、「私財ドーンと」は大胆に、「倍返し」はそっと、というつもりで書きました。


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涼し 766 今井宗薫

朝、善福寺川沿いを走ってきました。イヤホンが壊れたので、音楽無しで走りました。今日中に届くようなので注文しました。ついでにランニングシューズも注文しました。

「日本史1200人」766 今井宗薫(ソウクン;1552〜1627)

茶人、豪商。茶人・今井宗久の子として生まれた。豊臣秀吉に御伽衆として仕え、秀吉没後は徳川家康に接近した。家康の子・松平忠輝と伊達政宗の娘・五郎八姫の婚約成立に尽力したが、秀吉の遺命に逆らうものであると批判され高野山に追放された。また、1614年に大坂冬の陣が始まるとスパイ容疑で一時は大坂城に監禁された。後に徳川秀忠・家光の各将軍に茶頭として仕える一方で朱印船貿易も行い、父・宗久以来の所領を守り旗本今井家を成立させた。

「朱印船御手前涼し旗本じゃ 今井宗薫 に 端遊」

涼しが7月の季語です。夏は暑さばかりではなく涼しさもあります。「涼し」には「潔い」との意味もあります。また「御手前」には茶の湯の亭主方の作法の他に、お手並みの意味もあります。朱印船貿易を潔いお手並みで裁き、旗本になったかな・・・宗薫が用いた緞子(ドンス;絹織物)の名物裂は「宗薫緞子」と呼ばれ、その意匠は広く伝わっています。

習字は、「朱印船」は嬉しく、「御手前涼し」はサラリと、「旗本じゃ」は自慢して、というつもりで書きました。


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虹 765 茶屋四郎次郎

朝、風邪のせいか起きられませんでした。台風のため飛行機を7月11日から7月15日に変更しました。大きい台風が島を直撃するようなので心配です。

「日本史1200人」765 茶屋四郎次郎(シロウジロウ;1545〜1596)

呉服商。信濃守護小笠原長時の家臣・中島宗延の子の明延が武士を廃業し、京に上って呉服商「茶屋」を始めた。その子の初代・清延が「茶屋四郎次郎家初代」とされる。若い頃は家康に仕え、三方ヶ原の戦い等で活躍して橘の家紋を賜ったとされる。さらに本能寺の変の際、堺に滞在中であった徳川家康一行に早馬で一報し、後世に「神君伊賀越」といわれた脱出劇の際、物心ともに支援を行った。この恩により、徳川家康の御用商人として取り立てられ、2代目・3代目とも幕府に優遇されて財をなし、「京の三長者」と言われた。

「神君の伊賀越助け金の虹 茶屋四郎次郎 に 端遊」

虹が7月の季語です。家康を物心ともに支援したら、キンキラキンの虹が出たろうな・・・四郎次郎の17代目子孫、尾州茶屋家当主の中島恒雄は東京福祉大学を創立し、運営する学校法人名を「学校法人茶屋四郎次郎記念学園」としました。

習字は、「神君の」はスッキリと、「伊賀越助け」は強く大胆に、「金の虹」は嬉しく、というつもりで書きました。


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熱帯夜 764 鶴屋南北

朝、善福寺川沿いを走ってきました。昨日、福島の友ご夫妻と四人で毎日書道展を見て、本当に楽しい時間を過ごしました。今日は嫁さんと二人でじっくりもう一度見てみようと思っています。

「日本史1200人」764 鶴屋南北(ナンボク;1755〜1829)

歌舞伎狂言の作者。紺屋を生業とする父・海老屋伊三郎の子として江戸日本橋に生まれたが芝居好きのため狂言作者を志した。下積みが30年近くと長く、49歳になってはじめて立作者となり『世響音羽桜』を書いた。翌年には『天竺徳兵衛韓噺』が大当たりとなり、さらに『四天王楓江戸粧』を成功させた。1808年には『彩入御伽草』で怪談物の狂言を完成し、さらに『東海道四谷怪談』など次々に作品を発表していった。庶民の生活を奇想天外な着想で、しかも背景は現実的に描くことに徹し、悪人たちが引き起こす事件を乾いた視線で描写する作風であった。文化文政時代の爛熟した町人文化を色濃く反映していることでも知られる。

「熱帯夜お岩が髪にパーマする 鶴屋南北 に 端遊」

熱帯夜が7月の季語です。25℃以上の夜です。寝苦しい悪夢を見そうな夜です。『東海道四谷怪談』では毒を盛られたお岩が、抜け落ちる髪を梳きながら死んでいきます・・・南北の作品は独創性に富んでいましたが、巧妙な舞台装置を創造して歌舞伎の新しい表現を開拓したり、現在につたわるような鬘(カツラ)も編み出しています。

習字は、「熱帯夜」は暑苦しく、「お岩が髪に」は大胆にくどく、「パーマする」はサラリと、というつもりで書きました。


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