朝、善福寺川沿いを走ってきました。今日は口笛を吹くのがチョッと苦しくて疲れました。嫁さんはやっと風邪が治ったようです。
「日本史1200人」588 大久保忠教(タダタカ;1560〜1639)
徳川家臣、通称・彦左衛門。徳川家康に仕え兄・忠世らと共に各地を転戦した。1600年の関ヶ原の戦い後、次兄・忠佐は駿河国沼津城主を継がせようとしたが、忠教は「自分の勲功はない」と申し出を固辞したため沼津藩は改易された。さらに本家の忠隣が失脚・改易となると、それに連座して忠教も改易された。しかし家康直臣の旗本として召し出され復帰した。1614年の大坂の陣にも従軍し、家康死後は2代将軍・秀忠、3代将軍・家光にも仕えたが、幕府創立の功臣である大久保家への数々の冷遇を忘れることはなかったと伝えられる。いわゆる講談や講釈で知られるようになった「大久保彦左衛門と一心太助の物語」は鶴屋南北の弟子・河竹黙阿弥が書いた歌舞伎芝居に脚色してからである。
寝待月(ネマチヅキ)が9月の季語です。遅いので寝ながら月を待つことです。勧善懲悪は最後のお楽しみです・・・俗に「天下のご意見番」として「大だらい」に乗って登城し、将軍・家光にことあるごとに諫言したなどの逸話は後世の講談や講釈での創作です。これは当時の体制に不満を持っていた武功派にヒーローとして祭り上げられた結果ともいえます。
習字は、「待て待てィ!」は大胆に、「ご意見番は」は堅そうに、「寝待月」は柔らかく、というつもりで書きました。