川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

雨月 589 大久保忠佐

昨夜、3回足が痙ったせいか朝は起きられず、ランは休みました。午後は郵便局・区役所そして歯医者に行ってきます。

「日本史1200人」589 大久保忠佐(タダスケ;1537〜1613)

徳川家臣、駿河国沼津藩主、蟹江七本槍徳川十六神将。父や兄・忠世と共に松平広忠、家康に仕えた。武勇に優れ1572年の一言坂の戦いでは殿軍を務めている。1575年の長篠の戦い、1584年の小牧・長久手の戦いで武功を挙げた。1600年の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に従い、真田昌幸親子が籠る信濃国上田城を攻撃し、その功により、2万石の駿河国沼津藩主となった。しかし、長男・次男ともに早世したため、八弟の忠教を養子にして家を相続させようとしたが、忠教は「自分の勲功はない」として固辞した。忠佐が77歳で死去すると、沼津藩は無嗣断絶で改易となった。同僚の本多忠勝と同じく、戦場での活躍でも生涯無傷と伝わる。

「子は死んで弟依怙地あァ雨月 大久保忠佐 に 端遊」

雨月が9月の季語です。雨が降ってしまい名月が見られないことです。子と弟が雨、城を名月に掛けました・・・長篠の戦いにおいて、織田信長から兄の忠世と共に「膏薬(敵方に貼り付いて離れぬ意か)」と言われてその武勇を賞賛されました。

習字は、「子は死んで」は弱く、「弟依怙地」は強く、「あァ雨月」はそれなりに、というつもりで書きました。


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