川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

秋思 618 島津義弘

金曜日に四国お遍路から帰ってきました。ローソク・線香・納札・お賽銭を上げ、般若心経などのお教・願い事を計200回ほど唱えた旅行でした。せっかくなので日常に活かして行こうと思います。朝は雨が降っていたのでランは休みました。嫁さんも工芸祭の代休でゆっくりしています。

「日本史1200人」618 島津義弘(ヨシヒロ;1535〜1619)

戦国から安土桃山時代薩摩国島津氏・第17代当主。勇猛な戦いで兄・義久を補佐し島津氏の発展に寄与した。豊臣秀吉の九州平定軍とも戦ったが兄が降伏したため、以後は豊臣政権を援助し、朝鮮出兵では大功を立てた。関ヶ原の戦い直前、徳川家康から上杉氏討伐の援軍を要請され伏見城に赴いたが、入城を拒否されたので西軍に参戦した。しかし石田三成が義弘を軽視したため戦意を喪失した。西軍総崩れの中、一時は自害を決意したが甥の豊久に諌められ発奮し薩摩生還を果たした。このとき島津軍は捨て奸と言われる、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをする戦法を用い、甥・豊久や多くの将兵が犠牲になった。その後は薩摩の防御を固めて家康に対抗し、敗将ながら領国を安堵された。

「秋思など笑止!漢(オトコ)は名を惜しめ 島津義弘 に 端遊」

秋思(シュウシ)が10月の季語です。秋の物思いのことです。義弘はまさに名を惜しむ生き方です。名には当然、家名も入ります・・・秀吉も家康も島津氏を恐れ、義弘を優遇して兄・義久を冷遇し対立を煽ろうとしましたが、島津四兄弟の結束は固く微塵も互いを疑うことはありませんでした。

習字は、「秋思など」は弱く、「笑止!漢は」は強く、「名を惜しめ」はスッキリと、というつもりで書きました。


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