川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

螽斯(キリギリス) 89 ネルウァ

 朝、一人で海沿いをロングランして来ました。涼しくなったせいか疲れずに走ることが出来ました。これから、隣町に行って役場や友達のところに寄ってこようと思います。

「世界史1200人」89 ネルウァ(30〜98)

皇帝・ドミティアヌス暗殺後、元老院によってネルウァは皇帝に推挙された。ネルウァ帝は元老院への謝意を含めて、議員を処刑する事は決してしないと宣言した。一方、個人的な友人をしばしば元老院より重用し、先帝と協力していた貴族達とも関係を維持したため、元老院内には早くから反ネルウァ派が形成された。軍と民衆からの支持については更に乏しく、民衆への機嫌取りを行うため、近衛隊には一人に5000デナリウスが恩給として出され、民衆にも一人につき75デナリウスが贈られた。そして貧困層に対する税金の特別免除など福祉政策がこれに続いた。ばら撒き的な政策はすぐに財政難へと繋がり、まずは暴君とされた先帝の個人資産を没収する所から始まり、金銭だけでなく土地・家屋・船そして家具までもが競売で売り飛ばされた。その上で先帝時代の競馬・剣闘・宗教儀式などを殆ど廃止した。一番の収入は先帝が大量に作らせていた自身の黄金像と銀製像の山で、全てが溶かされて金銀に戻された。ネルウァ帝は自らに対するこのような代物を作る事を全面的に禁止した。

「螽斯(キリギリス)右に左に機嫌取り ネルウァ に 端遊」

螽斯(キリギリス)が9月の季語です。童話「アリとキリギリス」から連想しました。ネルウァ帝は、後継者には有能者を選ぶという先例を作ったとされますが、実際には後継者を選ぶ権利など無かったようです。彼は先帝の様に暗殺されない為に、軍の要求する人物を後継者に据えなければなりませんでした。後世にイギリスの歴史家エドワード・ギボンが主張した五賢帝という美化されたイメージは、今日の歴史学では基本的に支持されていません。

習字は、「螽斯」はスッキリと、「右に左に」はそれらしく、「機嫌取り」もそれらしく、というつもりで書きました。


f:id:tanyuu4792:20210921085007j:image