川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

受験 206 大江匡房

朝、雨が降っていたのでバイクを漕ぎました。明日の7時から隣町のランを再開することにしたのですが、雨のせいか7時でも外は暗く、ちょっと心配になりました。

「日本史1200人」206 大江匡房(1041〜1111)

公卿・歌人。正二位の権中納言まで登りつめた実力者で、歌にも優れ歌集「江帥(ゴウノソチ)集」がある。匡房の詩文に関する自叙伝「暮年記」の中で「予4歳の時始めて書を読み、8歳のときに史漢に通ひ、11歳の時に詩を賦して、世、神童と謂へり」と書いている。白河朝期には、高麗王文宗から日本の名医の派遣を要請する書状が届き、朝議により派遣を断ることに決まるが、匡房が断りの返信を起草した。また、関白・藤原頼通平等院を創建するために、宇治を訪問した際、大門が北に向いていた。これを匡房に尋ねたところ、即座に天竺の那蘭陀寺、震旦の西明寺、本朝の六波羅蜜寺は門が北に向いていると回答し、頼通を驚嘆させた。

「受験でも受難でも来い!神童じゃ 大江匡房 に 端遊」

受験が2月の季語です。大江匡房は兵法にも優れ、源義家の師となったというエピソードもあります。前九年の役の後、義家は匡房の弟子となり兵法を学び、後三年の役の実戦で用い成功を収めました。まさに「何でも来い!」です。

習字は、「受験でも」はスッキリと、「受難でも来い!」は強く、「神童じゃ」はとぼけて、というつもりで書きました。


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