川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

馬蛤(マテ) 246 三浦泰村

土曜日・日曜日は宮城谷昌光の「重耳」と司馬遼太郎の対談集を代る代る読んでいました。今日の朝は一人で海沿いを走って来ました。島は穏やかな天気が続くようになりました。

「日本史1200人」246 三浦泰村(?〜1247)

頼朝に従った有力御家人評定衆となり4代将軍・九条頼経に接近して親密な間柄になり、さらに弟・光村が5代将軍・九条頼嗣との仲を深めるようにまでなったため、5代執権・北条時頼から危険視されるようになる。泰村は武威に優れた人物であったが、他の御家人と諍いを起こすなど、政治家としての立ち回りには拙い部分があった。また、安達氏が北条氏の外戚になったことで、枢要な地位が三浦から安達へと推移していったことを把握できていなかった。やがて、時頼と三浦氏排斥派の安達景盛らの軍勢と戦い、一族とともに自害する(宝治合戦)。

「見え見えの周り見えない馬蛤(マテ)の殿 三浦泰村 に 端遊」

馬蛤(マテ)が4月の季語です。マテ貝のことです。砂泥地に垂直に棲息します。穴に塩を入れると飛び出し、そこを捕まえます。何となく立ち回りの拙い硬直気味の泰村に似ています。有名な話として、宝治合戦の直前、一旦、和睦が成立しかけていた時、緊張のあまり湯漬けを嘔吐したということです。これは恐怖からではなく、気を働かせ過ぎたためとされています。

習字は、「見え見えの」は明るく、「周り見えない」は悲しく、「馬蛤の殿」はチョットおバカに、というつもりで書きました。


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