川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

囀らず 248 九条兼実

 朝、隣町に行き、二人でいつものコースを楽しく走り、おしゃべりをして来ました。島は爽やかな天気です。

「日本史1200人」248 九条兼実(1149〜1207)

五摂家(摂政・関白に任じられる5家)のひとつ、九条家の祖。摂政、関白、太政大臣を歴任した。頼朝との協力関係を築き、頼朝が征夷大将軍に任じられるように計るが、朝廷内で孤立し、頼朝とも対立して失脚した。公私40年にわたる日記「玉葉」は貴重な資料である。兼実は内心の不満や批判は日記の中だけに止め、それを公言したり、対峙するようなことは決してしなかった。失脚した兼実は二度と政界に復帰することはなく、浄土宗の法然を戒師として出家し深く帰依するようになった。法然の著作「選択本願念仏集」は兼実の求めに応じて、法然が著したものである。

「一切は南無阿弥日記囀らず 九条兼実 に 端遊」

囀る(サエズル)が4月の季語です。求愛・縄張争いで雄鳥が鳴くことです。「口ではお念仏、ケチ愚痴は日記に」を「南無阿弥日記」と洒落たつもりですが・・・兼実は法然が唱える悪人正機の教えに少々信がおけませんでした。自分達のような俗人や、戒を破った僧が本当に念仏を唱えることで極楽浄土に往生できるのか確かめようとしました。そこで法然は孫弟子の綽空(後の親鸞)を指名し、あまり乗り気ではなかった綽空を説得して兼実の娘の玉日と結婚させ、兼実を安堵させました。

習字は、「一切は」は強く、「南無阿弥日記」は控えめに、「囀らず」ははしゃいで、というつもりで書きました。


f:id:tanyuu4792:20220413103220j:image