川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

夏痩せ 311 今川了俊

 昨日は、友の参院選の祝勝会に参加して来ました。予定より2時間前に行ってしまったので、久しぶりに神保町をブラブラし、嫁さんは書の古書を買いました。祝勝会では与那国から来てくれたと、おおいに喜んで貰いました。

「日本史1200人」311 今川了俊(1326〜?)

武将、歌人。1371年、九州探題となり、九州の南朝勢力を制圧し大宰府を奪還した。この後戦局は肥後へ移り、九州三人衆と呼ばれる豊後の大友親世、筑前の少弐冬資、大隅島津氏久らの来援を呼びかけた。冬資は着陣を拒んだが、氏久の仲介で来陣した。了俊が宴の最中に冬資を謀殺したことから、氏久は離反して帰国し、親世も支援を止めた。一転して窮地に陥った了俊は、大内弘世に援軍を要請し、その後の数度の戦いを経て、1392年の南北朝合一を機に、九州南朝勢力を帰順させて平定を果たした。

男児となウホホと笑い夏痩せし 今川了俊 に 端遊」

夏痩せが7月の季語です。当初、九州男児を侮っていた気配の了俊ですが、結局、平定には20年以上かかりました。夏痩せもしただろうな。ウホホは都人の笑いのつもりです・・・了俊は和歌・連歌に長じ、晩年は今川氏の歴史を記した「難太平記」を著しました。これは古典「太平記」を難ずる意味の書で、応永の乱における自らの立場や一族の功績を記しています。

習字は、「男児とな」は強く、「ウホホと笑い」は強弱を付けて、「夏痩せし」は弱々しく、というつもりで書きました。


f:id:tanyuu4792:20220711091114j:image