川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

豆撒 443 武田信虎

朝、海沿いを走ってきました。嫁さんは東京で、新しい素敵な人達との楽しい出会いが続いているようです。

「日本史1200人」443 武田信虎(ノブトラ;1494〜1574)

甲斐国・戦国武将、守護・武田信縄の長男。14歳で家督を継いだが、父の弟と家督を争い、さらに国人領主らとも抗争を繰り広げ、1532年頃にほぼ甲斐の統一を果たした。駿河信濃などへの侵攻にも乗り出したが、家臣の中から信虎の暴走を懸念する声が強まり、1541年、嫡男・晴信(信玄)によって駿河に追放された。今川義元の保護を受けていたが、1543年には上洛し、京都から高野山・奈良を遊歴している。また、1558年以降は生活の拠点を京都に移し、幕府に奉公するようになる。1573年に足利義昭は信長に対して挙兵するが、信虎は義昭の命で甲賀郡に派遣されたとされている。翌年、可愛がっていた六男・武田信廉の居城・高遠城に身を寄せ死去した。

「豆撒にまめに暮らせと追い出され 武田信虎 に 端遊」

豆撒が2月の季語です。追放前の信虎は鬼のようでした。「まめに」は“誠実に”や“元気に”の意味です・・・追放の原因は諸説あります。義元は晴信(信玄)に対して、信虎の隠居料を催促していますが、今川家中では義元の「御舅殿」として遇されて、今川一門よりも上位に置かれていました。

習字は、「豆撒きに」は幼く、「まめに暮らせと」は優しく、「追い出され」はそれなりに、というつもりで書きました。


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