川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

春嵐 470 今川義元

朝、善福寺川沿いを走ってきました。何だか風邪気味なのか走ることが修行のようでした。9時10分頃、嫁さんの友達から電話があり「与那国に津波が来る」とのことで、急いでテレビをつけたら馴染の景色が映り、何事もないようでした。震度4は島では経験がないので、みんなビックリしたろうな、などと見ていました。兄・従妹・友達から電話やメールを頂きました。

「日本史1200人」470 今川義元(ヨシモト;1519〜1560)

駿河国戦国大名今川氏親の5男で4歳で出家したが、兄の氏輝が夭逝したため18歳で家督を継いだ。当時は、東に北条氏綱、北に武田信玄、西に織田信秀がおり、厳しい状況であった。そこで、信玄に追放された信虎を受け入れ、1554年に北条氏・武田氏と甲相駿三国同盟を結び、1560年には2万5千の大軍を率いて上洛を目論み西進した。しかし、桶狭間で休憩し謡を催していたところを、豪雨の中1/10程度の信長軍の奇襲を受け討死した。義元は太刀を抜いて自ら奮戦し、一番槍をつけた服部一忠に反撃して膝を切り割ったが、毛利新介によって組み伏せられ、首を討ち取られて死亡した。伝聞によれば、義元は首を討たれる際、毛利の左指を噛み切ったという。

「春嵐謡蹴散らし首級挙げ 今川義元 に 端遊」

春嵐(ハルアラシ)が4月の季語です。春は一転して嵐となることがあります。織田軍と豪雨に掛けました・・・義元は京文化に憧れただけの武将との評価もありますが、土地と年貢を掌握して分国法を充実させ、商工業の保護・発展にも努めました。

習字は、「春嵐」はサラリと、「謡蹴散らし」は対照的に、「首級挙げ」はそれなりに、というつもりで書きました。


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