川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

進学 487 毛利隆元

朝、善福寺川沿いを走ってきました。嫁さんは都立工芸高校の入学以来、突っ走って来たので、さすがに疲れたのか連休を楽しみにしています。

「日本史1200人」487 毛利隆元(タカモト;1523〜1563)

毛利元就の長男。少年のころ数年間を人質として山口で過ごし、大内義隆から1字を与えられて隆元と称した。1546年、元就の突然の隠居表明により、家督を相続して第13代当主となった。しかし、自分に自信が持てない隆元は、実権の移譲を辞退していたとされる。1551年、大内義隆重臣陶晴賢により自害に追い込まれると晴賢打倒を主張し、1555年に父と共に旧友の晴賢を厳島の戦いで滅ぼした。1557年には、西の大友宗麟に対し、弟の隆景の支援を受けつつ撃退することに成功した。1563年、隆元は多治比猿掛城に帰還し、嫡男の幸鶴丸を呼び寄よせて対面した。これが父子の最後の対面となった。

「当主への進学ごめん裏口ね 毛利隆元 に 端遊」

進学が4月の季語です。隆元は平素から書状の中などで「自分は生来、無才覚無器量である」と自嘲的だったとか・・・偉大な父のため自信喪失しがちでしたが、親孝行で信心には優れ、元就も理解し期待していました。その隆元の急死を聞いた元就は、卒倒して三日三晩泣いたといわれます。

習字は、「当主への」は強く、「進学ごめん」はサラリと、「裏口ね」は弱く、というつもりで書きました。


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