川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

花粉症 486 毛利元就

昨日、習字の写真まで撮ったのに、ブログを投稿することを忘れてしまいました。今日は2日分を投稿することにしました。

「日本史1200人」486 毛利元就(モトナリ;1497〜1571)

安芸国戦国大名。国人・領主の弘元の次男として生まれ、兄が死去したため、27歳で家督を継ぎ郡山城主となった。当初は出雲の尼子氏と、周防の大内氏にはさまれ劣勢であった。そこで、三男の隆景を小早川氏に、次男の元春を吉川氏に養子として出し、後継者争いに巧みに介入して強引に家督を継がせ、安芸・備後・石見を勢力下におく大名となった。さらに主筋の陶晴賢に対しては、智将の江良房栄が謀反を企てているとのデマを流して殺害させた後の1555年に宣戦布告し、厳島に誘導して暴風雨の中を夜襲して壊滅させた。1566年には山陰の尼子氏を降伏させ、中国10カ国を平定した。戦国最高の知将と評される。長男・隆元に宛てた書状では「武略・計略・調略が肝要。謀多きは勝ち、少なきは負け」と謀略の重要性を説いている。

「謀(ハカリゴト)多きは勝ちと花粉症 毛利元就 に 端遊」

花粉症が4月の季語です。くしゃみ・鼻水・涙が出ます。“勝ち!”と言った途端に出たかな・・・隆元・元春・隆景の三兄弟の仲は良好ではなかったため、元就は「三子教訓状」を書きました。ここから「一本の矢は折れるが、三本にまとめた矢は折れない」と説いた「三矢の訓」が生まれたといわれます。

習字は、「謀」は強く、「多きは勝ちと」は狡く、「花粉症」はそれなりに、というつもりで書きました。


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