川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

花見酒 244 安達泰盛

 朝、一人で海沿いを走って来ました。昨日ほとんど走れなかったので、少し頑張って走りました。

「日本史1200人」244 安達泰盛(1231〜1285)

北条氏の有力御家人評定衆。8代執権・北条時宗外戚として支える。元寇の後、御家人の零細化などが進む中で、その立て直しを図り幕政改革を行う。しかし内管領(北条氏・宗家の執事)平頼綱との対立する。頼綱は泰盛の子が将軍になる野心ありと執権・貞時に讒言し、泰盛討伐の命を得て大きな衝突が起こり、泰盛とその一族500名余りが自害して果てた(霜月騒動)。頼綱方の追撃は全国に波及して泰盛派の御家人の多くが殺害された。この結果、得宗(北条氏・宗家)の権力が絶対化した。

「百日忌天国で飲む花見酒 安達泰盛 に 端遊」

花見酒が4月の季語です。霜月は旧暦の11月ですから、百日忌は百箇日のことですが、ちょうど桜の季節です。「天国」は245の平頼綱の地獄と対比しました。仙台城内の青葉山霜月騒動の翌々年の2月に建てられた高さ2m近い巨大な板碑があり、「過ぎし年の11月下旬、煙とともにあのおだやかな姿を消し、黄泉の国に赴いた陸奥守入道」と菩提を弔う願文が彫り込まれており、陸奥守であった泰盛のための板碑であろうと見られています。

習字は、「百日忌」は控えめに、「天国で飲む」は清らかに、「花見酒」は柔らかに、というつもりで書きました。


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地蜂 243 大庭景義

 昨夜は土踏まず周辺が攣り眠れませんでした。で、朝は基礎英語3を聴きながらゆっくりと走り、30分走った所で戻って来ました。

「日本史1200人」243 大庭景義(?〜1210)

鎌倉幕府ご意見番源義朝に従軍し、保元の乱で敵対した源為朝の矢により負傷し、これ以降歩行困難の身となり、第一線を退いて懐島郷に隠棲したが、源頼朝が挙兵するとそれに従い、その後は幕府の長老格として頼朝を助けた。

「片足の地蜂でござるご見参 大庭景義 に 端遊」

地蜂が4月の季語です。クロスズメバチのことです。地方出の一本足無し蜂が頼朝に「ご覧下され!」と・・・本当は雄蜂は働きませんが・・・後に景義は出家していますが、その2年後に「頼朝公の旗揚げより大功ある身ながら疑いをかけられ鎌倉を追われ、愁鬱のまま3年を過ごして参りました」と書面を奉じて許されたとあり、何らかの事件により失脚した可能性が高いとされています。

習字は、「片足の」はサラリと、「地蜂でござる」は明るく、「ご見参」は大胆に、というつもりで書きました。


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草団子 242 千葉常胤

 朝、一人で海沿いを走って来ました。久しぶりに晴れた空でした。歩幅を少し小さくして、無理なく走りました。

「日本史1200人」242 千葉常胤(1118〜1201)

鎌倉幕府成立に貢献した有力御家人の一人。1156年の保元の乱では源義朝のもとで戦う。後に房総に逃れてきた源頼朝を助けて、1180年の富士川の戦いで戦績を上げる。さらに、一ノ谷の戦いに参加し、豊後国に渡り軍功を上げ、洛中警護のため上洛し、1190年には奥州藤原氏討伐のための奥州合戦に従軍して、奥州各地に所領を得た。千葉常胤は千葉氏を豪族から御家人の地位まで登らしめた千葉家中興の祖といわれる。常胤以降、一族は諱に「胤」の一字を受け継ぐことが多くなる。

「田舎武士転戦の労草団子 千葉常胤 に 端遊」

草団子が4月の季語です。房総は当時は田舎でした。常胤は1193年に香取社(香取神宮)造営雑掌を務め、後に千葉氏が香取社地頭として、社内への検断権(警察権・裁判権)を行使する権利を獲得するきっかけとしました。

習字は、「田舎武士」は泥臭く、「転戦の労」は大胆に、「草団子」は幼く、というつもりで書きました。


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風光る 241 佐々木高綱

 朝、雨の予報だったのでバイクを漕ぎましたが、シャワーを浴びてからもう一度予報を見たら晴れていました。走れなかったのは残念ですが、やっと暖かくなって来そうです。

「日本史1200人」241 佐々木高綱(?〜1214)

石橋山の戦いで頼朝の危機を救った武士。1184年の宇治川の戦いで、頼朝から高綱に与えられた名馬は、先に梶原景季が願っていたものであった。これを恥辱と考えた景季は、高綱を殺して自害しようと決意する。高綱は機転を利かせて、これは賜ったのではなく盗んだのだと言うと景季は「自分も盗めばよかった」と笑った。さらに、高綱と景季は一番乗りの功名を目指して川に乗り入れようとしたが、高綱は「馬の腹帯が緩んでいる。絞め給え」と助言し、景季が馬の腹帯を締め直している隙に川に進み、高綱が一歩早く対岸に上陸して一番乗りを果たした。「平家物語」や「源平盛衰記」にその活躍が描かれ、歌舞伎の「鎌倉三代記」にも登場し、非常に人気のある武士である。

「嘘も良し!一番乗りに風光る 佐々木高綱 に 端遊」

風光るが4月の季語です。春は全てが風と共に光っています。これを一番乗りに掛けましたが「絞め給え」は嘘かな・・・現在、長野県松本市にある真宗大谷派正行寺と浄土真宗本願寺派正行寺は、親鸞聖人の弟子となった高綱が建立したと伝えられており、近くには高綱のものと推定される墓があります。また地元民は高綱の名にちなみ、この一帯を「高綱原」と呼んでおり、市立高綱中学校も存在します。

習字は、「嘘も良し!」はサラリと、「一番乗りに」は強く、「風光る」は明るく、というつもりで書きました。


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蛙(カワズ) 240 比企能員

 朝、今日も雨なのでバイクを漕ぎました。シャワーを浴びて体重を測ったら53.6kgと先週より0.2kg減っていました。今日は4月1日、年度初めですが島の天気は荒れ模様です。

「日本史1200人」240 比企能員(?〜1203)

鎌倉幕府御家人。頼朝からの信頼が厚かった側近で、娘が源頼家の子を生み、外戚として権力を強めたが、北条時政に疎まれ謀略により滅亡する。頼家が危篤状態に陥った際、北条時政の頼家遺領分与の決定に不満を持った能員は、頼家に時政の謀反を訴える。しかし、この密議を障子の影で立ち聞きしていた政子が時政に告げ、先手を打って仏事の相談があるとして能員を自宅に呼び出した。一族はさかんに引き止めて武装するように訴えたが「武装したりすればかえって怪しまれる」と振り切り、平服のまま時政の屋敷に向かい、時政の手勢に刺し殺された。

「平服で飛んで火に入る蛙かな 比企能員 に 端遊」

蛙(カワズ)が4月の季語です。蛙はなんとなく無防備なので能員に掛けました。歴史学者からは、北条氏征伐を企てたという能員が、敵であるはずの時政の邸を無防備に訪れている不自然さなどから、比企氏の反乱自体が北条氏のでっちあげであろうとの見方がされています。

習字は、「平服で」はスッキリと、「飛んで火に入る」は強く、「蛙かな」はサラリと、というつもりで書きました。


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種蒔く 239 梶原景時

 朝、二度寝したら1時間半も遅く起きてしまいました。知らない人がいっぱい出てくる、その人達といろんなことをする自分の夢を三っつも見ました。そのせいか海沿いのランはすごく疲れました。

「日本史1200人」239 梶原景時(?〜1200)

侍所所司、厩別当。教養のある頼朝の側近で和歌を好んだ。石橋山の戦いで頼朝を救ったことから重用されたが、義経とはしばしば対立した。景時の讒言には源義経のほか夜須行宗と畠山重忠の例がある。さらに頼朝の死後、頼家と有力御家人との対立が続き、これを嘆いた結城朝光を、頼家への誹謗であると讒言した。これを知った御家人たちは怒り、景時排斥を求める連判状を頼家に提出すると、景時は弁明せずに一族とともに退いた。後に、一族を率いて上洛の途中、在地の武士たちと戦闘になり、一族33人が討ち死にした。

「讒言は何の種蒔く人を巻く 梶原景時 に 端遊」

種蒔くが3月の季語です。讒言の種は大方は悪でしょうか・・・「人を巻く」は多分に語呂合せですが「煙に巻く」と「縄で巻く」を掛けました。景時は、かつては源義経と対立した敵役として、讒言によって人を陥れる人物としてイメージされていました。しかし近年は、教養があり主君に忠実で事務能力に優れた、官僚的人物と評価が定着しつつあるそうです。

習字は、「讒言は」はサラリと、「何の種蒔く」は強く、「人を巻く」は煙に・縄で巻くように、というつもりで書きました。


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ムツ五郎 238 和田義盛

 朝、霧雨が降っていたので、隣町のランは休みにし、バイクを漕ぎました。シャワーからあがると晴れ間が見えてきました。

「日本史1200人」238 和田義盛(1147〜1213)

三浦氏の一族、初代侍所別当鎌倉幕府成立の功臣で平氏追討や比企氏の乱平定などに参加する。源頼家専制を抑えるために始められた13人の合議制のひとりに列し権力を持つが、その単純・愚直さを2代執権・北条義時に利用され、挑発を受けて挙兵に追い込まれた。和田方が意外な大軍となり、これを恐れた義時は将軍実朝の名で御教書を発した。これに応じた多くの御家人による幕府軍は和田一族を次々と討ち、愛息・義直も討ち死にした。老いた義盛は声をあげて悲嘆号泣し、そこに郎党が襲いかかり、遂に和田一族は滅亡した。

「煽られて跳ねて泥んこムツ五郎 和田義盛 に 端遊」

ムツ五郎が3月の季語です。大口になり、全身で飛び跳ねる姿は、挑発を受けた義盛のようです。その目は、何だか号泣もしそうです・・・義盛は弓の名手であり、武勇において御家人の尊敬を受ける人物でした。現在の鎌倉彫椿堂の辺りに邸宅がありました。義盛が戦死した由比ヶ浜には、現在でも「和田塚」という地名が残っています。

習字は、「煽られて」はサラリと、「跳ねて泥んこ」は大胆にはみ出るように、「ムツ五郎」はチョット悲しく、というつもりで書きました。


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