川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

新豆腐 344 義堂周信

 朝、一人で海沿いを走って来ました。ゆっくりゆっくり走りました。島は町議選を忘れ、すっかり静かです。

「日本史1200人」344 義堂周信(1325〜1388)

夢窓疎石の弟子。土佐国(高知県)の生まれ、14歳で剃髪する。はじめ台密を学ぶが後に禅宗に改宗し、上京して夢窓疎石の門弟となる。1359年に鎌倉公方足利基氏に招かれて鎌倉へ下向し1380年まで滞在した。基氏や関東管領の上杉氏などに禅宗を教え、基氏の没後に幼くして鎌倉公方となった足利氏満の教育係も務めた。この間、諸問題・事件の解決に尽力しその公明正大、厳正中立な態度で各方面に感銘を与えた。

「修身の鏡ぞ贅は新豆腐 義堂周信 に 端遊」

新豆腐が8月の季語です。今年収穫した大豆で作った豆腐です。周信はマジメ一方の記録しかないので、名前に掛けたダジャレ句にしました・・・帰京後は3代将軍・足利義満のもと相国寺建立を進言し、建仁寺南禅寺・等持寺の住職を務めました。春屋妙葩や絶海中津と並ぶ、中国文化に通じた五山文学を代表する学問僧とされます。

習字は、「修身の」はスッキリと、「鏡ぞ贅は」は大胆に、「新豆腐」は強く、というつもりで書きました。


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西瓜 343 吉田兼倶

 昨日の夕方、二人が辞退したので、町議は無投票で決まりました、と町の放送がありました。ビックリでした!で、今日は気が抜けたのか2時間近く遅れて起き、ランは休みました。

「日本史1200人」343 吉田兼倶(1435〜1511)

本姓は卜部氏、唯一神道(吉田神道)の創始者。1484年、吉田神社に斎所として虚無太元尊神(ソラナキオオモトミコトカミ)を祀る大元宮を創建して、日本各地の神を祭ったが、伊勢神宮には反対された。吉田神道の根本経典である「唯一神道名法要集」「神道大意」「神名帳頭註」を著し、また朝廷・幕府に取り入り勢力を拡大し、みずから「神祇管領長上」と名乗り全国の神社を支配、神位・神職の位階を授与する権限を獲得した。

神道の親玉手玉西瓜喰う 吉田兼倶 に 端遊」

西瓜が8月の季語です。アクの強い人間が西瓜を喰っている構図が浮かびました。全体がダジャレですが・・・兼倶が吉田神道を唱えた背景には、両部神道伊勢神道に対抗する意図がありました。兼倶は、吉田神道の主張を通じて神道を統合し、神道界の権威になろうとしました。

習字は、「神道の」はスッキリと、「親玉手玉」はクセをつけて、「西瓜喰う」は強弱をつけて、というつもりで書きました。


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施餓鬼 342 夢窓疎石

 朝、一人で海沿いを走って来ました。帰ってシャワーを浴びて、お誘いをうけていた町議選の出陣式に行って来ました。

「日本史1200人」342 夢窓疎石(1275〜1351)

天龍寺を建立した臨済宗の禅僧。後醍醐天皇にその才覚を見い出されて尊崇を受け、入滅後も含めると計7度の国師号を授与され、後世には七朝帝師と称えられる。禅風は純粋禅ではなく、日本の伝統的な天台宗真言宗とも親和性の高い折衷主義的なものとした。そのため幅広い層からの支持を受け、後醍醐に続き武家である室町幕府初代将軍の足利尊氏・直義兄弟からも崇敬された。後醍醐天皇の死後、疎石の勧めで、政敵であった足利尊氏天皇らの菩提を弔うため、全国に安国寺を建立し利生塔を設置した。

「施餓鬼して有縁無縁を供養する 夢窓疎石 に 端遊」

施餓鬼が8月の季語です。無縁仏の霊を供養することです。だれからも好かれた疎石をイメージしました・・・疎石は禅僧としての業績の他、禅庭・枯山水の完成者であり、天龍寺庭園と西芳寺庭園が世界遺産に登録されています。

習字は、「施餓鬼して」は優しく、「有縁無縁を」はおおらかに、「供養する」はサラリと、というつもりで書きました。


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稲妻 341 日親

昨日、4回目のコロナワクチンを接種しました。 朝はいつものように、一人で海沿いを走って来ました。今日は渡辺貞夫のサックスに元気づけられ走ることが出来ました。

「日本史1200人」341 日親(1407〜1488)

京都に本法寺を開いた。「不受不施義」を初めて唱えたとされている。日親は京都一条戻橋で辻説法をはじめたが、他宗派から激しい弾圧を受けた。また、日親は法華経によって、当時の乱れた世の中を救うべく、「立正治国論」を著して直訴を試みたが、投獄されて、舌先を切り取られたり、真っ赤に焼けた鉄鍋を頭に被せられるなどの拷問を受けた。拷問を受けた際に灼熱の鍋を被せられたまま説法を説いたという伝説が誕生し「鍋かぶり上人」と呼ばれた。

「稲妻の激しさが仇(アダ)鍋かぶり 日親 に 端遊」

稲妻が8月の季語です。雷鳴も聞こえず、夜空に走る電光です。日親の激しさ・鋭さに掛けました・・・不受不施義(フジュフセギ)とは、日蓮の思想の1つで、不受とは法華信者以外の布施を受けないこと、不施とは法華信者以外の供養を施さないことです。

習字は、「稲妻の」はスッキリと、「激しさが仇」は強く、「鍋かぶり」は弱く、というつもりで書きました。


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不知火 340 世阿弥

 朝、一人で海沿いを走って来ました。誰ともすれ違わないので、いつも自分との対話です。帰ってシャワーを浴びて体重を測ったら53.6kgと先週より0.1kg増えていました。

「日本史1200人」340 世阿弥(1363〜1443)

猿楽師。足利義満の庇護のもと教養を身に付け、父の観阿弥と共に猿楽(能楽)を大成し、その奥義を「風姿花伝」に著した。当時の貴族・武家社会には、幽玄を尊ぶ気風があった。世阿弥は観客である彼らの好みに合わせ、言葉・所作・歌舞・物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を大成させていった。しかし、足利義教の時代に弾圧され、1434年に佐渡国へ流された。世阿弥の作品とされる「高砂」「実盛」などは、現在も能で演じられる。

「不知火を生死(ショウジ)に飾り夢幻能 世阿弥 に 端遊」

不知火(シラヌイ)が8月の季語です。沖合に無数に明滅する灯りで、神秘的です。漁火なので昔は無かったな・・・「風姿花伝」では、観客に感動を与える力を「花」として表現しています。能の奥義である「まことの花」は心の工夫公案から生まれると説かれます。「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」として「風姿花伝」の内容は長らく秘伝とされてきました。

習字は、「不知火を」はサラリと、「生死に飾り」は強く、「夢幻能 」は伸びやかに、というつもりで書きました。


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星祭 339 観阿弥

 朝、一人で海沿いを走って来ました。途中から雨が降ってきて、久しぶりにずぶ濡れになりました。

「日本史1200人」339 観阿弥(1333〜1384)

世阿弥の父、観世座の祖。田楽が流行する中、猿楽能で足利義満の庇護を受け、一座は幕府のお抱えとなる。観世一座が人気を博した原因は、大和猿楽が得意とした物真似芸に、田楽の優美な舞や、南北朝に流行した曲舞(クセマイ)の音曲を取り入れた新演出が、当時の観客の心に強い感興をおよばしたことだといわれている。観阿弥は「大柄であったが、女を演じると優美であった」「大和猿楽伝来の鬼の能にすぐれていた」「貴顕にも民衆にも愛された」などと息子世阿弥の伝書に散見される。

「女(メ)は優し鬼は激しと星祭 観阿弥 に 端遊」

星祭(ホシマツリ)が8月の季語です。本来は牽牛・織女の二星の祭りです。句は祭の夜に行われたであろう猿楽能をイメージしました。観阿弥は作品も多く残しています。後世に改作されていますが、「自然居士」「小町(現行・卒塔婆小町)」「四位少将(現行・通小町)」などです。

習字は、「女は優し」は柔らかく、「鬼は激しと」は強く、「星祭」はサラリと、というつもりで書きました。


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摂待 338 蓮如

 朝、隣町に行って、二人でいつものコースを楽しく走りおしゃべりして来ました。

「日本史1200人」338 蓮如(1415〜1499)

僧(浄土真宗)、本願寺8世、幼名は布袋丸。蓮如が生まれた当時は、本願寺は他宗に圧され衰退していた。17歳で得度(出家)し、本願寺再興を図り、「御文」を使って布教に努めた。「御文」とは開祖・親鸞の教義を手紙形式で書き綴ったもので、このわかりやすさが民衆に受け、その後に大教団へと成長した。1448年、加賀国(石川県)で浄土真宗(一向宗)信徒と在地の領主らによる加賀一向一揆が起きると、蓮如は「消息(騒動しずめの御文)」を送り、これを鎮めた。蓮如は妻と4度の死別を経て5回結婚し、生涯で27人の子に恵まれた。

「摂待に御文を広げ輪を拡げ 蓮如 に 端遊」

摂待が8月の季語です。供養のため、仏家で門前に湯茶を用意し往来の人に振る舞うことです。「御文」は後に孫の円如が「五帖御文」「帖外御文」としてまとめました。また、弟子たちが蓮如の言行を「蓮如上人御一代聞書」全316箇条に残しました。

習字は、「摂待に」はサラリと、「御文を広げ」は優しく、「輪を拡げ」はおおらかに、というつもりで書きました。


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