川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

行く春 471 斎藤道三

朝、善福寺川沿いを走ってきました。今日は島で出会った友達と、皇居の桜見をしようと思っています。楽しみです。

「日本史1200人」471 斎藤道三(ドウサン;1494〜1556)

美濃国戦国大名。父は京都妙覚寺僧・西村新左衛門尉で、道三は一介の油売商であった。父はクーデターで守護代の斎藤利良を追放し、新しい守護として土岐頼芸を擁立した。しかし道三は父の死後、守護代の斎藤家を乗っ取り、1552年には頼芸を尾張国へ追いやり、美濃一国を自分のものにした。その非情な“国盗り”を見た人々は「蝮の道三」と呼んだという。道三は隣国尾張織田信秀と和睦し、娘の濃姫織田信長に嫁がせた。1554年、追放した頼芸の子とされる斎藤義龍家督を譲ったが関係は上手くいかず、宣戦布告を受けることになった。道三も挙兵したが従う兵は少なく、長良川の戦いで戦死した。

「行く春の蝮のたりと負け戦 斎藤道三 に 端遊」

行く春が4月の季語です。春を道三の全盛期に見立てました・・・道三が初めて信長と会見した時、信長は500もの鉄砲隊を率いて正装で颯爽と現れました。道三は「自分の息子らは信長に臣従することになる」と予言しました。

習字は、「行く春の」はスッキリと、「蝮のたりと」はのったりと、「負け戦」は弱く、というつもりで書きました。


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春嵐 470 今川義元

朝、善福寺川沿いを走ってきました。何だか風邪気味なのか走ることが修行のようでした。9時10分頃、嫁さんの友達から電話があり「与那国に津波が来る」とのことで、急いでテレビをつけたら馴染の景色が映り、何事もないようでした。震度4は島では経験がないので、みんなビックリしたろうな、などと見ていました。兄・従妹・友達から電話やメールを頂きました。

「日本史1200人」470 今川義元(ヨシモト;1519〜1560)

駿河国戦国大名今川氏親の5男で4歳で出家したが、兄の氏輝が夭逝したため18歳で家督を継いだ。当時は、東に北条氏綱、北に武田信玄、西に織田信秀がおり、厳しい状況であった。そこで、信玄に追放された信虎を受け入れ、1554年に北条氏・武田氏と甲相駿三国同盟を結び、1560年には2万5千の大軍を率いて上洛を目論み西進した。しかし、桶狭間で休憩し謡を催していたところを、豪雨の中1/10程度の信長軍の奇襲を受け討死した。義元は太刀を抜いて自ら奮戦し、一番槍をつけた服部一忠に反撃して膝を切り割ったが、毛利新介によって組み伏せられ、首を討ち取られて死亡した。伝聞によれば、義元は首を討たれる際、毛利の左指を噛み切ったという。

「春嵐謡蹴散らし首級挙げ 今川義元 に 端遊」

春嵐(ハルアラシ)が4月の季語です。春は一転して嵐となることがあります。織田軍と豪雨に掛けました・・・義元は京文化に憧れただけの武将との評価もありますが、土地と年貢を掌握して分国法を充実させ、商工業の保護・発展にも努めました。

習字は、「春嵐」はサラリと、「謡蹴散らし」は対照的に、「首級挙げ」はそれなりに、というつもりで書きました。


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蜃気楼 469 高遠頼継

朝、善福寺川沿いを走ってきました。昨夜は僕も嫁さんも足がつり大変でした。食事と運動で治ればと思っています。

「日本史1200人」469 高遠頼継(ヨリツグ;?〜1552)

戦国武将、甲斐武田氏・家臣、伊那郡高遠城城主。甲斐・武田氏と信濃諏訪氏は同盟していたが、1542年に武田信玄が当主になると、同盟を破棄して諏訪郡へ侵攻した。諏訪惣領家出身の先祖を持つ頼継は武田氏に与して侵攻し、諏訪領の西半分を支配した。諏訪氏惣領を目指す頼継は、さらに武田領へ侵攻したが、敗退して諏訪から退去した。さらに1545年には高遠城も落城し、頼継は武田方に降伏して甲府へ出仕した。高遠城はその後武田氏により改修されたが、1548年に武田方が村上義清との戦いにおいて敗退した。その動揺の中、頼継は甲府から高遠城へ帰城した。その後、再び武田氏に出仕しているが、1552年の下伊那攻めの際に自害させられた。

「涯(ハテ)までじゃニヤリ摑んだ蜃気楼 高遠頼継 に 端遊」

蜃気楼が4月の季語です。大気の気温差と光の屈折によって生じる幻影です。諏訪の涯(ハテ)までが見えたかな・・・頼継に代わって高遠氏・重臣の保科正俊が武田氏に重用されるようになりました。高遠氏は従来、頼継の死去をもって滅亡したと考えられていましたが、信玄四男の勝頼が高遠諏訪家を継いでいたことが指摘されています。

習字は、「涯までじゃ」は願うように、「ニヤリ摑んだ」は強く、「蜃気楼」はふんわりと、というつもりで書きました。


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花吹雪 468 溝口秀勝

朝、雨が降っていたのでランは休みました。朝方、2回ほど足がつったので、腎機能との関係を調べていたのですが、それ程には関係ないようなのでホッとしました。

「日本史1200人」468 溝口秀勝(ヒデカツ;1548〜1610)

戦国から江戸初期の大名、越後国新発田藩の初代藩主。溝口勝政の長男として尾張国に生まれ、幼少時より丹羽長秀に仕えたが、33歳の時に織田信長から才能を見出され、直臣として若狭国高浜城5千石を与えられた。本能寺の変の後は羽柴秀吉に属し、賤ヶ岳の戦い後に加賀国大聖寺城4万4千石を与えられ、朝鮮派兵の後に越後国新発田城6万石を与えられた。1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、越後において上杉景勝の鎮圧に努めた、戦後に徳川家康から所領を安堵され、新発田藩初代藩主となった。

「とんとんと出世街道花吹雪 溝口秀勝 に 端遊」

花吹雪が4月の季語です。桜の花が散ることです。秀勝は遠山の金さんのように、桜吹雪を背にして「いよ!ニクイね!」と声がかかりそうです・・・秀勝は新発田において死去し、自らが開基した新発田城下の淨見寺に葬られました。同寺は後に寺号を「寶光寺」と改称し、新潟県新発田市諏訪町に秀勝の墓所と共に現存します。

習字は、「とんとんと」はサラリと、「出世街道」は得意げに、「花吹雪」はそれなりに、というつもりで書きました。


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花吹雪 468 溝口秀勝

朝、雨が降っていたのでランは休みました。朝方、2回ほど足がつったので、腎機能との関係を調べていたのですが、それ程には関係ないようなのでホッとしました。

「日本史1200人」468 溝口秀勝(ヒデカツ;1548〜1610)

戦国から江戸初期の大名、越後国新発田藩の初代藩主。溝口勝政の長男として尾張国に生まれ、幼少時より丹羽長秀に仕えたが、33歳の時に織田信長から才能を見出され、直臣として若狭国高浜城5千石を与えられた。本能寺の変の後は羽柴秀吉に属し、賤ヶ岳の戦い後に加賀国大聖寺城4万4千石を与えられ、朝鮮派兵の後に越後国新発田城6万石を与えられた。1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、越後において上杉景勝の鎮圧に努めた、戦後に徳川家康から所領を安堵され、新発田藩初代藩主となった。

「とんとんと出世街道花吹雪 溝口秀勝 に 端遊」

花吹雪が4月の季語です。桜の花が散ることです。秀勝は遠山の金さんのように、桜吹雪を背にして「いよ!ニクイね!」と声がかかりそうです・・・秀勝は新発田において死去し、自らが開基した新発田城下の淨見寺に葬られました。同寺は後に寺号を「寶光寺」と改称し、新潟県新発田市諏訪町に秀勝の墓所と共に現存します。

習字は、「とんとんと」はサラリと、「出世街道」は得意げに、「花吹雪」はそれなりに、というつもりで書きました。


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田螺鳴く 467 遊佐慶親

朝、雨が降っていたのでゆっくり起きました。無線のイヤホン今度こそはと、アンカーのイヤホンを買いました。

「日本史1200人」467 遊佐慶親(ヨシチカ;?)

越中国守護の畠山氏の守護代、蓮沼城主。城は遊佐氏(遊佐徳盛?)が築き居城とした。連歌師の宗祇が越後に赴く途中に度々立ち寄り、千句の連歌を興行したと伝えられている。1504年〜1527年間に、城主・遊佐慶親が埴生護国八幡宮に108段の石段を寄進しているがこの後、慶親は加賀一向一揆勢力の圧迫に抗しきれず越後に亡命し、蓮沼城は遊佐氏の影響下から離れた。

「一向に負けたお殿と田螺鳴く 遊佐慶親 に 端遊」

田螺鳴くが3月の季語です。俳句の世界では、春愁に鳴くといわれますが鳴きません。農民に負ける殿も、鳴く田螺もすごく珍しいので・・・1585年、佐々成政豊臣秀吉との対決のために、蓮沼城を重要拠点としました。これをみた前田利家は電撃的に蓮沼城を急襲して城下共々焼き討ちしました。現在では、水田と散居村に囲まれて立派な石碑と案内板が建つのみで往時の面影はありません。

習字は、「一向に」は強く、「負けたお殿と」は弱く、「田螺鳴く」はサラリと、というつもりで書きました。


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春の虹 466 畠山義総

朝、善福寺川沿いを走ってきました。シャワーを浴びてすっきりして、佼成病院に行き大腸がん予後検診を受けてきました。結果はチョッと腎臓の機能が弱いけど異常なしでした。

「日本史1200人」466 畠山義総(ヨシフサ;1491〜1545)

能登守護大名戦国大名能登畠山氏の第7代当主。能登畠山氏の全盛期を現出した名君として知られる。24歳で家督を継ぎ、積極的な国作りを行ない、名城・七尾城を建設した。この七尾城は後に上杉謙信の攻撃を1年以上耐え切り、天下でも屈指の堅城として讃えられた。また七尾湾と富山湾の流通を支配し、宝達金山の開発にも取り組んだ。義総は文化人でもあり、戦乱を逃れて下向してきた公家や連歌師などの文化人を積極的に保護し、さらには商人や手工業者にも手厚い保護を与えて、義総治世の七尾城下町は、小京都とまで呼ばれるほどに発展したという。

「む!名城ほ!小京都と春の虹 畠山義総 に 端遊」

春の虹が3月の季語です。春にも虹はありますが淡く束の間で、義総の全盛期のようです・・・義総は病死し次男の畠山義続が継ぎましたが、義総が死ぬと重臣たちの主導権争いが始まり、畠山氏は衰退していきました。

習字は、「む!名城」はスッキリと、「ほ!小京都と」は明るく、「春の虹」は淡く、というつもりで書きました。


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