川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

中元 66 ペリクレス

 朝、一人で海沿いをロングランして来ました。コロナは少しづつ収まってきたようです。で、外に出て会う機会が増えたようで、どこから発生したか、どんな人が罹らないかなど、花が咲いているようです。

「世界史1200人」66 ペリクレス(前495〜前429)

アテネの政治家。ペリクレスは貴族派のキモンが出征中の不在を狙って会議の実権を奪い、全アテナイ市民による政治参加を促進した。翌年、キモンが陶片追放によって正式に国外追放されると、以後アテナイの最高権力者の地位を独占し、15年間全盛時代をもたらした。この頃、ペルシアの侵攻の可能性は薄れたが、各ポリス(都市国家)が拠出したデロス同盟の資金をアテナイのために流用し、民衆の懐柔と海軍の増強に当て、「ペリクレス時代」をつくった。ペリクレスの演説は現代にまで伝えられ、欧米の政治家の手本となっている。「アテナイの住民は富を追求する。しかしそれは可能性を保持するためであって、愚かしくも虚栄に酔いしれるためではないのである」「貧しいことは恥ずべきことではない。しかし、その貧しさから脱しようと努めず、安住することこそ恥ずべきことであるとアテナイ人は考える」などと演説している。

「人誑し流用金でお中元 ペリクレス に 端遊」

中元が8月の季語です。陰暦7月15日の時期に行う贈物です。人誑し(ヒトタラシ)は甘言で人をとりこむことで、ペリクレスに当てました。スパルタがデロス同盟から離反したポリスを支援するようになると、紀元前431年、両者の間に戦争が勃発しました(ペロポネソス戦争)。ペリクレスは強力なスパルタ陸軍に対し籠城策をとり、海上決戦の機会を狙っていましたが、城内に伝染病が発生したことで多くの市民が犠牲となって急速に市民の支持を失い、自らもペストに罹って没しました。

習字は、「人誑し」は大胆に、「流用金で」は細く、「お中元」は強弱を付けて、というつもりで書きました。


f:id:tanyuu4792:20210819102530j:image