川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

網代 376 柴田勝家

朝、善福寺川沿いを走ってきました。家で体操をしている時は、寒いので休もうかと思ったのですが、外に出たら覚悟が決まりました。

「日本史1200人」376 柴田勝家(?〜1583)

武将、織田家の重鎮。生年は明確ではなく、出自は不明である。若いころから織田信秀の家臣として仕え、信秀が死去すると、織田信勝(信行)に家老として仕えた。信勝が信長との戦いに破れ、さらに謀反の計画を企むと、信長に密告し信勝は殺害された。以後は信長の家臣となり、やがて最精鋭として武功を挙げ北ノ庄城主となった。本能寺の変の際には、上杉方の魚津城を攻囲し陥落させていたが、上杉側が変を知って抵抗したため、近江に出動した時には、秀吉の軍が光秀を討っていた。清洲会議後は秀吉と反目して賤ヶ岳の戦いとなり、北ノ庄城にて妻のお市らとともに自害した。「鬼柴田」ともいわれ、先鋒としての突進力は、織田家随一であった。

網代だと!鬼の突進ゴゴォーとじゃ 柴田勝家 に 端遊」

網代(アジロ)が11月の季語です。網代は柴木などを網目にした魚を捕るしかけで、秀吉の策略に掛けました・・・フロイス「日本報告」は、賤ヶ岳の闘いの敗戦の後の勝家が、離反した家臣に対して恨み言は言わず、付き添ってきた家臣たちには、生き延びることを喜び、家臣たちに報いるすべがないことへの嘆きを収載しており、温情ある人柄を伝えています。

習字は、「網代だと?」はとぼけて、「鬼の突進」は大胆に強く、「ゴゴォーとじゃ」はそれなりに、というつもりで書きました。


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