川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

帰り花 375 織田秀信

土曜日・日曜日と、日本史の本を読んでいました。流れと細部が分かる本は、なかなか見つかりません。今日の朝は、いつものように善福寺川沿いを走ってきました。

「日本史1200人」375 織田秀信(1580〜1605)

織田信忠の嫡男、信長の嫡孫、幼名は三法師、キリシタン大名

本能寺の変の後、清洲会議において羽柴秀吉の周旋により、わずか3歳で織田家家督を相続し20万石を得た。織田信雄の後見を受けたが、秀吉と信雄が対立すると、三法師は秀吉の下に移され、秀吉と信雄が講和をすると、信雄が織田家家督を正式に相続した。後に秀吉に従属した。関ヶ原の戦いでは、石田三成から「戦勝のあかつきには美濃・尾張の2ヶ国を宛行う」との条件で勧誘されて西軍に加勢した。秀信自身も1700騎を率いて上川手村閻魔堂まで出陣し総指揮を執ったが、追い詰められて岐阜城に籠城し、自刃しようとしたが説得されて開城した。

「孫様は談合の花帰り花 織田秀信 に 端遊」

帰り花が11月の季語です。季節外れの花です。冬なので直ぐ枯れます。3歳で家督相続した秀信に掛けました。清須会議はまさに談合です・・・改易された秀信は高野山で修行を積むことになりましたが、祖父・信長の行った高野山攻めが仇となって当初は入山が許されず、出家が許された後も迫害を受けました。

習字は、「孫さまは」はサラリと、「談合の花」はあざとく、「かえり花」は知らんぷりして、というつもりで書きました。


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