川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

切干 379 丹羽長秀

朝、善福寺川沿いを走ってきました。目覚ましを掛け忘れ、少し遅く走り出した分、暖かでした。

「日本史1200人」379 丹羽長秀(1535〜1585)

武将、織田氏の宿老。16歳から信長に仕え、桶狭間の戦いにも従軍した。斎藤龍興との美濃国における戦いで台頭し、若狭一国を与えられ、織田家臣で最初の国持大名となった。その後も各地を転戦して功を挙げ、さらに政治面においても優れ、柴田勝家と並び織田家の双璧といわれた。本能寺の変の際には、信長の3男・信孝の補佐役として堺におり、秀吉軍と合流して光秀を討った。清須会議(織田家継承会議)以降は秀吉につき、約123万石の大大名として一生を終えた。しかし、長秀は長く腹中の「積虫」に苦しみ「なんで積虫のために殺されようか」と、短刀を腹に指し、虫を得て死去した。その虫は死んでおらず、日を経てもなお死ななかった。その石亀に似て鳥のような嘴をもった怪物というのは、回虫と見るのが妥当とされる。

「快調だ!むム回虫め!切干だ 丹羽長秀 に 端遊」

切干(キリボシ)が11月の季語です。本来は切り干し大根です。切干にしても腹の虫が治まらなかったろうな・・・長秀は賤ヶ岳の戦いでも秀吉の下について勝家らと戦い、勝家所領の越前・若狭と加賀2郡を与えられました。そしてそこへ、出家した一益を受け入れました。

習字は、「快調だ!」は楽しく、「むム回虫め」は大胆にそれなりに、「切干だ!」は強く、というつもりで書きました。


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