川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

竹瓮(タツペ) 381 森可成

嫁さんは今日の絵画教室のために、昨夜は徹夜でした。で、朝は嫁さんが寝ると同時に外に出て、善福寺川沿いを走ってきました。

「日本史1200人」381 森可成(1523〜1570)

武将、森長可森蘭丸の父。美濃国土岐氏に仕え、斎藤道三土岐氏が滅ぼされた後には、尾張国織田信長に仕えた。柴田勝家より以前に仕えた年長組で、信長の家督相続と尾張国統一に尽力し、各地に転戦して武功をあげ、42歳の時には美濃金山城を与えられ、信長上洛の際には先鋒を務め、上洛後には近江宇佐山城を与えられた。さらに浅井・朝倉の連合軍出撃の知らせを受けて出撃し、緒戦においては街道を封鎖して、連合軍3万を1千の軍勢で撃退した。しかし、石山本願寺が要請した僧兵なども連合軍に加わったため、信長の弟・織田信治らと共に討死した。

「三万と?竹瓮(タツペ)の法ぞ年長じゃ 森可成 に 端遊」

竹瓮(タツペ)が11月の季語です。細竹で編んだ筒の一方を閉じた、魚捕りのしかけです。街道封鎖に似てるかな・・・信長は年長の可成の死を深く悲しみ、直後に弔い合戦として、浅井・朝倉軍に協力した比叡山延暦寺を焼き討ちする原因の1つになったといいます。

習字は、「三万と?」はサラリと、「竹瓮の法ぞ」はそれなりに、「年長じゃ」は自慢げに、というつもりで書きました。


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