川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

注連(シメ)飾る 395 片倉景綱

朝、一番の寒さでしたが、善福寺川沿いを走ってきました。最後まで手が悴んでいました。いよいよ明後日、島に帰ります。

「日本史1200人」395 片倉景綱(1557〜1615)

武将、大名。米沢八幡宮の神主の子として生まれた。幼い時に両親が亡くなり、約20歳違いの姉の喜多に養育された。喜多は文武両道に通じ兵書を講じたという。1567年、伊達政宗が産まれると喜多は「乳母」を拝命した。景綱は19歳で9歳の政宗に仕えてからは、生涯右腕として働いた。29歳の時には二本松城攻略で武功をあげ大森城主となった。1590年、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣する際には、これに強く反対する家臣らを説得した。後に秀吉から直臣になるよう勧められたが、きっぱりと断っている。関ヶ原の戦いでは政宗とともに徳川方として戦い、上杉景勝白石城(宮城県)を攻め落とした功績で白石城主となった。片倉家は白石城主として、仙台の伊達家を江戸時代を通じて支え続けた。

「注連(シメ)飾る武勇・忠義は姉譲り 片倉景綱 に 端遊」

注連(シメ)飾るが12月の季語です。繁栄の歳神の神域を示すために門に張ります。片倉家は益々繁栄です・・・政宗が疱瘡で右目の視力を失った際、右目をえぐり出すようにいわれ、それを平然とやってのけたことでも、信頼関係の強さが伺われます。

習字は、「注連飾る」はサラリと、「武勇・忠義は」は楽しく「姉譲り」はすまして、というつもりで書きました。


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