川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

春隣 421 佐竹義重

朝、海沿いを走ってきました。昨夜はぐっすり眠れたせいか、快調に走ることができました。昨日は今年始めてのホカロンをしましたが、今日は無くても大丈夫そうです。

「日本史1200人」421 佐竹義重(1547〜1612)

佐竹氏第18代当主、戦国大名上杉謙信と連携を強め、伊達氏よりも南側の諸大名は佐竹氏の傘下に入り、「奥州一統」を為し全盛期を築き上げたと高く評価された。領内の金山に最新の冶金技術を導入して豊富な資金を得て関東一の鉄砲隊を備えたという。1589年、南から北条氏直、北から伊達政宗という2大勢力に挟まれ、滅亡の危機に立たされ、同年に長男の義宣に家督を譲って隠居したが、1590年に懇意にしていた豊臣秀吉小田原征伐が始まると、小田原に参陣し奥州仕置にも従ったことから、秀吉から常陸国54万石の支配権を認められ、一気に状況を挽回することに成功した。その後は義宣に実権を譲渡し、太田城にて悠々自適の隠居生活を送った。

「挽回じゃ急げ小田原春隣 佐竹義重 に 端遊」

春隣が1月の季語です。“お家にもうすぐ春が”の感じです・・・1600年の関ヶ原の戦いでは、子の義宣は西軍に、義重は東軍にと対立しました。東軍が勝利した後は義宣の曖昧な態度を理由に、出羽国20万石に減封されました。義重が誼を通じていた家康に嘆願したため改易は免れました。

習字は、「挽回じゃ」はサラリと、「急げ小田原」はそれなりに、「春隣」は堂々と、というつもりで書きました。


f:id:tanyuu4792:20240125102430j:image