川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

寒の月 422 佐竹義宣

朝、海沿いを走ってきました。帰ってシャワーを浴びようとしたら、お湯が出ないので慌てました。考え事をしていたのか冷水の栓を開けていました。体重を測ったら55.6kgと先週より0.5kg増えていました。

「日本史1200人」422 佐竹義宣(ヨシノブ;1570〜1633)

佐竹氏第19代当主、戦国大名。義宣が家督を相続した頃の佐竹氏は伊達政宗に攻められ、南奥州の基盤を失う事態に陥っていた。こうしたなか秀吉から小田原征伐への出陣命令を受けた。義宣は政宗と対峙していたが、小田原へ進軍し秀吉に謁見し、太閤検地によって54万石を安堵された。関ヶ原の戦いでは、義宣は東軍への加担の主張に抗し切れずに援軍を出したが、石田三成と親交があり積極的には味方しなかった。戦いが東軍の勝利に終わると、父・義重はただちに祝賀する使者を送り、さらに上洛して家康に不戦を謝罪した。義宣は父の説得により1602年にようやく家康に謝罪した。義宣は家康から、出羽国秋田郡に54万石から20万石とする、減封の国替えの命令を受けた。

「減封の義理か意地かと寒の月 佐竹義宣 に 端遊」

寒の月が1月の季語です。凍てつく空にくっきりと、心を見通すような月です。三成への義理か、己の意地か・・・秋田転封後、義宣は家柄や旧例にとらわれず能力本位で登用し、積極的に家中の建て直しに尽くしました。また、大坂の陣では徳川方として大いに活躍しました。これにより、江戸中期の久保田藩の実高は45万石にも上りました。

習字は、「減封の」はスッキリと、「義理か意地かと」は強く、「寒の月」はサラリと、というつもりで書きました。


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