川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

海鞘 495 大内義隆

朝、善福寺川沿いを走ってきました。今日「没後100年 富岡鉄斎 公式図録」が届きそうなので楽しみです。

「日本史1200人」495 大内義隆(ヨシタカ;1507〜1551)

戦国末期の大内氏の最後の大名、義興の子。父の死で家を継ぎ6カ国の守護となる。有職故実を尊重し、京都から官務家を招いて文書にあたらせた。後奈良天皇即位の儀式の資を献上して大宰大弐に任ぜられると、少弐氏を滅ぼして肥前国を収め、北九州と制海権を掌中にし、東は安芸の武田氏を滅ぼし、備後の諸将も従属させた。1542年、尼子氏討伐に大敗してより武事を忘れ文事にふけった。位は従二位に上り、公家たちを山口に迎えて厚遇し、京都の学問芸能を移植したりした。その文事と奢侈は陶晴賢武断派家臣団と領民一般の反感を買い、謀反にあって長門大寧寺切腹して果てた。

「大敗し海鞘にもなれず文化人 大内義隆 に 端遊」

海鞘(ホヤ)が5月の季語です。海の岩肌に付着し、水と一緒に餌を吸い込み生きています。海鞘のように静かに自足してればよかったのに、奢侈な文化人になるから・・・義隆が治めた山口は、ザビエルの一行に宣教の自由を与え、朝鮮と明の商人が訪れ、国際的な文化商業都市でした。

習字は、「大敗し」は強く、「海鞘にもなれず」は弱く、「文化人」はそれなりに、というつもりで書きました。


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