川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

厄落し 440 太田資正

今日は嫁さんの工芸高校の入試の日です。朝6時に目覚ましコールして、応援を伝えました。僕も太陽に合格祈願するために走ってきました。折返し地点で祈ろうとした途端に太陽が雲間から現れ、これで満願成就!と帰ってきました。しばらくして、嫁さんの「無事終わりました!」という明るい声が聞こえてきました。

「日本史1200人」440 太田資正(スケマサ;1522〜1591)

戦国武将、太田道灌の曾孫、資頼の子。武蔵国岩付城主、のち常陸国片野城主。1546年、主君・上杉朝定北条氏康との河越夜戦で討死を遂げ、扇谷上杉氏が滅亡した。資正は後も北条氏に反抗し、同年、病死した兄・資時を継いで武蔵岩槻城主となった。1561年に上杉謙信が北条氏を小田原城に攻めた際はその主力として活躍したが、第二次国府台の戦で敗れた。この時、親北条派であった子の氏資が岩付城を占拠して北条氏に降伏し、資正は岩付城を追放された。資正は娘婿を頼り、岩付城奪還を図るが失敗して出家した。やがて、常陸国佐竹義重を頼り配下となり、片野城主に任ぜられた。北条氏に対する佐竹・上杉両氏の同盟締結には資正の奔走があった。生涯、北条氏に抵抗した扇谷上杉氏の遺臣だった。

「曾祖父(ヒイジイ)は厄落しぞよ立て遺臣 太田資正 に 端遊」

厄落しが2月の季語です。厄難をはらうために、金銭などを捨てることです。太田道灌扇谷上杉家に厄落しされたと、後世には伝わります。句は天から見ている神様が言ってます・・・資正は織田信長とも連絡を持ち、1590年の豊臣秀吉小田原征伐の際には小田原に参陣して秀吉に謁見しましたが、故地である岩付に戻ることは叶わず病死しました。

習字は、「曾祖父は」は弱く、「厄落しぞよ」は意地悪く、「立て遺臣」はそれなりに、というつもりで書きました。


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