川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

朧(オボロ) 475 浅井長政

昨日は嫁さんの都立工芸高校の入学式でした。与那国島に移住して20年が過ぎ、幸せな再出発を迎えることができました。


f:id:tanyuu4792:20240410134321j:image

入学式を終えて阿佐ヶ谷に帰り、二人の大好きな居酒屋で乾杯をしました。夜遅く寝たので、今日の朝はゆっくり起きて善福寺川沿いを走ってきました。

「日本史1200人」475 浅井長政(1545〜1573)

近江国戦国大名。15歳で軍を率いて六角氏軍を破り、家臣らの勧めにより16歳で家督を継いだ。織田信長が同盟を求めてきた時には“父・久政との盟友・朝倉義景を独断で攻めない”との条件を付け、信長の妹・お市の方正室に迎えた。ところが1570年に織田軍が朝倉氏に侵攻したため、長政は旧敵の六角氏とも組んで、織田軍を撃退した。しかし、織田軍は直ぐに報復攻撃に来て、姉川での戦いでは大敗した。長政は比叡山延暦寺一向宗とも連携して信長と対するが、比叡山は焼き打ちにあい、敗勢が濃くなってきた。信長が信玄の死と共に、1573年に総攻撃をかけてきたため、義景とともに戦ったが小谷城は包囲された。降伏勧告の使者が来たが長政は受け入れず、お市の方と茶々・初・江の3人の娘を織田軍に送り出した。

「爽やかに弱きを助け身は朧(オボロ) 浅井長政 に 端遊」

朧(オボロ)が4月の季語です。春の夜の物や音のぼんやりした様をさしますが、魚のすり身・そぼろの意味もあり、これを長政に掛けました・・・浅井・朝倉軍が織田軍を北近江に引きつけている隙に、武田信玄が西上を開始しましたが、義景が越前に帰ってしまったため、信玄の計画は頓挫しました。

習字は、「爽やかに」はスッキリと、「弱きを助け」はそれなりに、「身は朧」は弱く、というつもりで書きました。


f:id:tanyuu4792:20240410134926j:image