川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

春雨 117 藤原清衡

 昨日は嫁さんの誕生日なので、昼は外に食べに行くことにしてたのですが、2軒のお店共に休みで残念でした。島は昨日・今日と荒れ模様で朝はバイクを漕ぎました。

「日本史1200人」の第117番の藤原清衡(キヨヒラ1056〜1128)です。

藤原経清の子であるが7歳で清原氏に入り、清原一族の乱では源義家の力を借りて家族全員を殺害した敵・異父弟を滅ぼした。この後、姓を藤原に戻り奥州藤原氏氏長者となる。京の藤原摂関家と緊密に関係を保ちながら、奥州全土を支配する。1124年には平泉に金箔で覆われた中尊寺金色堂を建立した。

「春雨に金色堂よハウマッチ 藤原清衡 に感じて」

春雨が3月の季語です。春雨にしっとり濡れた金色堂は、この世のものとは思えなかったでしょうが・・・庶民はついお値段が気になります。金色堂に納められた清衡の遺骸を調査した結果、血液型はAB型で、頬骨が秀でて鼻筋が通り、身長は159cmで体形は痩せ形。レントゲン検査によると、左半身に顕著な骨萎縮があり、脳腫瘍などにより半身不随であったと見られています。

習字は、「春雨に」は控えめに、「金色堂よ」はメリハリを付けて、「ハウマッチ」は変化を付けて、というつもりで書きました。


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芽立ち時 116 源義家

朝、「カタカナ英会話」を聞きながらロングランをして来ました。突然の新しいフレーズはやっぱり言えないなァ〜!と、走ったり歩いたりして来ました。 

「日本史1200人」の第116番の源義家(1039〜1106)です。

地方で力を蓄えた武士団の代表が、桓武天皇の家系から出た桓武平氏と、清和天皇の家系から出た清和源氏である。義家は清和源氏の実力者・源頼義の子であり13歳で初陣し、父とともに12年の合戦の末に安倍氏を平定した。さらに清原一族の乱を鎮めて名望が高まり、源氏の棟梁となった。清原一族の乱は内紛ということで朝廷から恩賞は出なかったが、義家は自分の財産を部下への恩賞にしたということで、源氏と東国武士は強く結ばれ、やがて訪れる源氏の武家政治の基盤となった。

「ヘン貴族武士は絆だ芽立ち時 源義家 に感じて」

芽立ち時が3月の季語です。春一斉に芽を吹き始める時です。武士が芽を出し、やがて花開くことに掛けました。目立ち時とも思いました。諸国の武士や百姓のなかで義家に荘園を寄進する者が多くなり、白河院政の軍事力の中核になると、院や貴族は警戒心を強め、弟の義綱や平正盛を重用するようになります。このため、義家の死後に深刻な後継者争いが生じ、平氏が台頭して来ます。

習字は、「ヘン貴族」はバカにした感じ、「武士は絆だ」は強く勢いよく、「芽立ち時」は変化をつけて、というつもりで書きました。


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都忘れ 115 藤原純友

 朝、マインドフルネスの音楽を聴きながらロングランをして来ました。僕はX脚のせいか左足を地面に摺って走りがちですが、自然な走り方がやっと出来るようになってきました。

「日本史1200人」の第115番の藤原純友(?〜941)です。

藤原北家の出身であるが、早くに父を失い都での出世は望むべくもなく海賊制圧に赴き、そのまま伊予国に根を下ろした。936年頃には自らが海賊の棟梁となり、やがて勢力を瀬戸内海全域に延ばし、940年には淡路国讃岐国国府大宰府を攻略する。朝廷は大いに慌てたが、小野好古源経基らを送り翌年に制圧する。

「ざまァ見ろ都忘れの海賊さ 藤原純友 に感じて」

都忘れが3月の季語です。紫や淡紅の花をつけます。純友が反乱を起こした当時、関東では平将門が反乱を起こしていました。将門と純友は謀議をして、京都を制圧した時には将門が天皇、純友が関白になると計画していたという逸話があります。

習字は、「ざまァ見ろ」は意味のとおりに、「都忘れの」はフワーと、「海賊さ」は勢いよく、というつもりで書きました。


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芽菖蒲 114 平将門

 朝、海沿いをロングランして来ました。行きはアレサ・フランクリンを聴いたのですが、何だかしっくり来ないので、帰りはマインドフルネスを聴いたらバッチリ気持ちよく走れました。

「日本史1200人」の第114番の平将門(タイラノマサカド?〜940)です。

武士は朝廷に仕える役人だったが、10世紀には地方の紛争を鎮めるため派遣され、そのまま地方で勢力を伸ばすようになって来た。将門は早くから根をおろした桓武平氏の実力者・平良将の子である。良将の領地を引き継ぐため官位を得ようと上京し、朝廷に出仕していたが、父の死後、領地は伯父たちに奪われた。これがきっかけで戦いとなり、さらに国司とも対立して、関東8カ国を制圧して939年、自ら新皇と名乗った。しかし、50日後に、将門に父を殺された平貞盛藤原秀郷の連合軍に討たれた。将門は侠気に富んだ武人だったと伝えられ、時代とともに英雄視されるようになった。

「芽菖蒲よ関八州に朕(チン)も咲く 平将門 に感じて」

芽菖蒲が3月の季語です。花菖蒲の芽です。菖蒲≒勝負、泥の中から出す芽、花菖蒲の花言葉「心意気」に掛けました。また、新皇と名乗ったとのことで朕とシャレました。朕はかつて古代中国において王侯貴族が使っていましたが、始皇帝が皇帝のみ使用できる一人称として独占しました。それに倣い、日本においても天皇詔勅や公文書内における一人称として用いました。

習字は、「芽菖蒲よ」はスッキリと、「関八州に」は力のこもった感じで、「朕も咲く」はおおらかに、というつもりで書きました。何枚書いてもイマイチで、チョッと妥協しました。


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黄水仙 113 藤原定子

 2日続けてロングランをしたので散歩でもと思ったのですが、もう一度寝ました。5日前から休みを入れず本を読んだりしていたので、息が詰まって来た感じです。

「日本史1200人」の第113番の藤原定子(テイシ977〜1001)です。

藤原道隆の長女。990年に14歳で一条天皇中宮となる。同じ中宮となる彰子よりも9年早い。聡明で一条天皇との仲も良好であった。しかし、定子の兄・伊周と弟・隆家らが花山院を射る事件を起こした際には二人をかくまい、自ら鋏を取り出家するに到る。その約2年後、一条天皇は周囲の反対を押し退け、再び定子を宮中に迎え入れたが内裏の中へ正式に入れず、天皇が人目を避けて密かに通わざるを得なかった。

「一途です尼でも甘い黄水仙 藤原定子 に感じて」

黄水仙が3月の季語です。花言葉は「もう一度愛してほしい、私のもとへ帰って」です。定子の一途な思いを句にしたかったのですが、「尼でも女」の意を尼と甘の音でダジャレました。出家後の后の入内は異例中の異例の不謹慎で、藤原実資はその日記「小右記」に「天下不甘心」の語を記しています。

習字は、「一途です」は柔らかくスッキリと、「尼でも甘い」は甘く但し尼は抑えて、「黄水仙」は強く、というつもりで書きました。


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鷽(ウソ) 112 清少納言

 昨日の午後、日課を終えてから、ルイス・サッカー「穴」を読んでいました。児童小説の枠を超えた何か分からないものがあり、今日読み終わった時にどう思うか楽しみです。朝はいつものように海沿いをロングランして来ました。

「日本史1200人」の第112番の清少納言(セイショウナゴン)です。

三十六歌仙のひとり清原元輔の娘。日本文学の最高峰のひとつ「枕草子」を執筆する。「清少納言集」など歌人としての作品も残す。宮廷生活が始まったのは993年頃、藤原道隆の娘・定子に女房として仕えるようになってからである。この時からの体験を随筆風に記した「枕草子」は、彼女の豊かな感性と観察眼によって才気あふれる筆致で描かれている。性格は男勝りで、宮廷でも男性貴族と議論を交わし、和歌のやり取りでも機知に富んだ応酬が残されている。

「鷽(ウソ)かしら千年を超えビューティフル 清少納言 に感じて」

鷽が3月の季語です。本当に美しい声です。「枕草子」も虚実合い混じりということですが、鋭く明るくビューティフルです。本名は諾(ナギ)子とも言われますが定かではありません。宮廷に入る前に橘則光と結婚し一子則長を設けた後に離婚しています。則光は「宇治拾遺物語」などでは猛者ですが、「枕草子」では気の弱い人物です。その後、摂津守藤原棟世と再婚しています。

習字は、「鷽かしら」は柔らかく、「千年を超え」は強く、「ビューティフル」はそれらしく、というつもりで書きました。鷽とビューティフルが思ったより難しく、本を読む時間が少なくなりました。


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暖か 111 藤原彰子

 昨日は沢木耕太郎の「春に散る」を読んだり、中田敦彦さんの「東南アジア史」を見たりしました。今日は習字を書いてから、海沿いのロングランをして来ました。

「日本史1200人」の第111番の藤原彰子(ショウシ988〜1074)です。

藤原道長の長女。999年に12歳で一条天皇後宮に入り、女房である紫式部和泉式部赤染衛門らに教育を受けた。聡明で優しく、ライバルにも礼儀や援助をかかさず生涯面倒を見た。一条天皇とは最期まで一緒におり、一条の辞世の句は彰子の傍らで読まれ、彰子が書き留めた。栄華を極めながら思慮深く「賢后」と賞された。

「暖かに一流女房ざァますよ 藤原彰子 に感じて」

暖かが3月の季語です。時々冷たさが残る暖かさです。歴史に残る女房たちはライバルに勝つためにどんな教育をしたのかな・・・一条天皇が死の床にあって、彰子が生んだ第二皇子の立太子が決定します。一条天皇の真意が定子が生んだ第一皇子にあり、自身も愛情を込めて養育していた彰子は、第二皇子の立太子を後押しした父・道長を怨んだといわれています。実子より養子を大事にした彰子と伝えられますが、結局、実子が立太子しているので真実は分かりません。

習字は、「暖かに」は少し毒を含んだように、「一流女房」はスッキリと、「ざァますよ」はオホホッという感じ、というつもりで書きました。「ざァますよ」は初めは大きく書いたのですが、一流女房は小声でアドバイスだろうなと思い、小さく書きました。


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