川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

大祓 36 アリストテレス

 朝、海沿いをロングランして来ました。友の用時に合わせて、明日からは6時40分スタートとしました。嫁さんは一学期最期の習字指導なので、夜は乾杯しようと冷蔵庫にビールを入れました。

「世界史1200人」36 アリストテレス(前384〜前322)

アリストテレスマケドニアの侍医の子に生まれた。17歳でアテネに出てアカデメイアプラトンに師事した。プラトン没後はマケドニアアレクサンドロス大王の教育係を務めた。そして再びアテネに戻りリュケイオンという学園を開設した。哲学・政治・倫理・歴史・経済・心理・論理・美学・生物と、諸学の研究・思索を進め、古代学問の集大成を行った。特に動物に関する体系的な研究は古代世界では東西に類を見ない。多数の著作を残し、イスラーム哲学や中世ヨーロッパの神学に大きな影響を与え「万学の祖」と呼ばれた。「人間は政治的(社会的)動物である」の名言を残す。アリストテレスの学問には現在では多くの誤りがあるが、その知的巨人さゆえに、あるいはキリスト教の権威付けが得られたため、中世を通じ疑われることなく、これが後にガリレオ・ガリレイの悲劇を生む要因ともなる。しかし、アリストテレスの個別の学問が独立した学問として自律することで、巨視的には現代に至るまで続いてきた学問の歴史となる。

「万学を極めて決めて大祓 アリストテレス に 端遊」

大祓が7月の季語です。万民の罪や穢を祓う神事です。アリストテレス学が宗教的権威付けをされたことに掛けました。アリストテレスは、人間の本性が「知を愛する」ことにあると考えました。ギリシャ語ではこれをフィロソフィアと呼びます。フィロは「愛する」、ソフィアは「知」を意味します。この言葉がヨーロッパの各国の言語で「哲学」を意味する言葉の語源となりました。

習字は、「万学を」はスッキリと、「極めて決めて」は強弱を付けて、「大祓」は和風に大胆に、というつもりで書きました。


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御来迎 35 プラトン

 朝、隣町に行き、本当に久しぶりに三人でいつものコースを走り、楽しくおしゃべりをして来ました。

「世界史1200人」35 プラトン(前428〜前347)

プラトンアテネの裕福な家に生まれ、少年期から科学・文学・政治に興味を持っていた。しかし10代の終わり頃ソクラテスに出会ってから哲学に目覚め、ソクラテスが死ぬまで約10年間師事した。ソクラテスの刑死後は「ソクラテスの弁明」「饗宴」「クリトン」などを著し、師の思想を広めるとともに、自身の思索も深めていった。プラトンの哲学の中心は「イデア論」であり、真に実在するのは永遠不滅のイデア(観念)で、現実世界はイデアが様々な形で現れたものにすぎないという。そしてイデアの中でも最高の実在が「善のイデア」であると考えた。プラトンソクラテスと同様に衆愚政治に陥りがちな民主政治には反対で、少数の優秀な哲人による「哲人政治」を理想とし、それを「国家論」に著した。

「御来迎不滅のイデア渾然し プラトン に 端遊」

御来迎が7月の季語です。高山の晴れた日、太陽が昇り西に雲霧がある時、そこに立つと雲霧に自分の姿が移り、昔の人は仏の来迎と見ました。プラトンも御来迎を見たとイメージしました。プラトンアテネ郊外にアカデメイアという学園を建てましたが、この学園は529年まで存続しました。学会や学園などに使われる「アカデミー」の語源です。また、青年期はアテナイを代表するレスラーとしても活躍し、プラトンという名前そのものがレスリングの師から付けられた仇名であると言われています。

習字は、「御来迎」はスッキリと、「不滅の」は力強く強弱を付けて、「イデア」はカタカナらしく、「渾然し」は柔らかく、というつもりで書きました。


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百日紅 34 クセノフォン

 朝、海沿いをロングランして来ました。途中から友も参加してくれました。風が強く波が高く、台風でも発生したのかなと思いました。

「世界史1200人」34 クセノフォン(前430〜前354)

 (ウィキではクセノポン)

古代ギリシアの軍人、著作家ソクラテスの弟子。クセノポンは若いころ、ペルシア王の弟キュロスが兄王を打倒すべく雇ったギリシア傭兵に参加した。クセノポンがこのことについてソクラテスに相談すると、ソクラテスは「神様にお伺いをたてろ」と言った。しかしクセノポンは「参加するにあたっては、どの神にお供えをすればいいか」とお伺いをたててしまい、その答えを聞いてしまった。ソクラテスは「参加するにあたっては」とお伺いを立ててしまった以上、神様に嘘はつけないとして、参加を許したという。傭兵として参加した東征も、キュロスの戦死によって失敗に終わる。ペルシア帝国の真ん中に放り出された傭兵部隊をまとめ、激しい攻撃や自然の猛威を防ぎながらも敵中を脱することができたのは、クセノポンの名采配あってこそだった。この戦いに参加した経験を「アナバシス」という史料性の高い著作に残した。

「哲学も戦いも好き百日紅 クセノフォン に 端遊」

百日紅(サルスベリ)が7月の季語です。木の肌が滑らかで猿も落ちるといわれます。花言葉の「雄弁・愛嬌・不用意」のどれもがクセノフォンに合いそうだと思いました。彼はソクラテスの言動を「ソクラテスの思い出」に記述しています。その殆どは、ソクラテスが弟子や友人・ライバル・および有名なギリシャ人と行った対話を集めたもので、一つ一つのエピソードは短いですが、ソクラテスの哲学の一端を垣間見ることのできるものとなっています。ソクラテスが良き教育者としてアテナイの人々によい影響を与えたか、という視点からまとめられたようです。

習字は、「哲学も」はスッキリと、「戦いも好き」は子供っぽく、「百日紅」は和風に、というつもりで書きました。


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炎天下 33 ソクラテス

 朝、近くの友とジョグをし、途中からいつものロングランをして来ました。朝が涼しいので友も喜んでいました。嫁さんは幼稚園に読み聞かせに行きました。

「世界史1200人」33 ソクラテス(前469〜前399)

ソクラテスは、ペロポネソス戦争に従軍したほかはアテネ市内で過ごした。戦争後、アテネでは産業が衰え、民主政治が衆愚政治に陥りやすくなっていた。そんなアテネにはソフィストと呼ばれる弁論の職業教師がいて、市民に訴訟などの論争に勝つ方法を教えていた。折しもソクラテスデルフォイアポロン神殿で「ソクラテスより賢者はなし」という神託を聞き、その神意を確かめるために、ソフィストたちを訪ね歩いた。その結果、自分の優れているところは、無知を誰よりも自覚していることだと気づいた。ソクラテスはこれを「無知の知」と呼び、人々に無知を自覚させる「対話」をして回った。そして、ソフィストたちの相対的な「詭弁」を批判し、普遍的な真理が存在すること、より良く生きることは善を実行すること「徳」であると説いた。しかし、ソクラテスが買ったのは反感であった。そして「青年を害する」罪で告発された。死刑判決を受けたソクラテスは「悪法といえども国家の法に従うべし」といい、潔く毒杯をあおった。

無知の知を青年に問う炎天下 ソクラテス に 端遊」

炎天下が7月の季語です。真夏の燃え上がる太陽の天の下であり、「対話」をして回った時の反応を掛けました。ソクラテスを口汚く罵り、粗暴な振る舞いのため、悪妻として名高いクサンティッペは実は平凡な女性であったとの見方もあります。アテネ市民にも奇異に映ったソクラテスの言動に、ついて行けなかったのかもしれません。

習字は、「無知の知を」と「青年に問う」は前半弱く・後半強く、「炎天下」は激しく、というつもりで書きました。


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紙魚(シミ) 32 シュリーマン

 朝、海沿いをロングランして来ました。月曜日から近くの友と朝にランすることにしました。帰ってシャワーを浴びてから体重を測ったら53.4kgと先週より0.5kg減っていました。パイナップルやサクランボを食べたりしたので、増えたと思っていたのですが、嬉しいです。

「世界史1200人」 32 シュリーマン(1822〜1890)

貧しい牧師の子に生まれる。「幼少時に父親の影響でホメロスの詩を愛読し、トロイア戦争の遺跡発掘を夢見て、苦労しながらも天才的な語学力で商売に成功し、巨費を投じてトロイアを初めとする多くの遺跡発掘に成功した。」と自伝にはある。しかし、彼は発掘の専門家ではなく、オスマン帝国政府との協定を無視し出土品を国外に持ち出したり私蔵するなどした。こうした不適切な発掘作業のため遺跡にはかなりの損傷がみられ、これらは現在に至っても考古学者による再発掘・再考証を難しい物にしている。

トロイアの発掘の夢紙魚(シミ)残し シュリーマン に 端遊」

紙魚(シミ)が7月の季語です。紙・衣類を食いちぎる、すばしこい虫です。素晴らしい自伝や歴史資料も少し食いちぎられた感じです。大富豪となったシュリーマンは仕事を辞め世界旅行に出ますが、幕末・慶応元年(1865年)には清と日本を訪れ、当時の東アジアを描写しています。 (石井和子訳「シュリーマン旅行記清国・日本」講談社学術文庫

習字は、「トロイアの」は控えめに、「発掘の夢」は強弱を付けて大胆に、「紙魚残し」は染みのように、というつもりで書きました。


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星涼し 31 ホメロス

朝、足の疲労が取れたので、海沿いをロングランして来ました。気持ち良く走ることが出来ました。

 「世界史1200人」31 ホメロス(前750頃)

古代ギリシアの盲目の詩人。ギリシア最古の叙事詩イリアス」「オデュッセイア」の作者・編者とされる。古代・中世のギリシア人たちは、2つの叙事詩ホメーロスの作である事を疑わなかったが、今日では、両詩の原型はホメーロス(と仮に呼ぶ)1人によって、それ以前の口承文学を引用しつつ創造されたという説が有力である。また、その内容には異なった時代の慣習があり、ホメーロス世界もそれ自体としては存在せず、詩的に創造された世界を表している。「イリアス」は全24巻で前1200年頃のトロイア戦争10年目の49日を描写している。「トロイアの木馬」の話はここに登場する。「オデュッセイア」は全24巻でトロイア戦争の英雄・オデュッセウスが戦後に海上を漂流する冒険を、ドラマチックに描いている。いずれにしても後のヨーロッパ文化に多大な影響を与えた。

「星涼しギリシアの詩(ウタ)時を越え ホメロス に 端遊」

星涼しが7月の季語です。夏の夜の星は鮮やかです。そんな星は遥か昔のギリシアの詩を思い出させるとイメージしました。ホメーロスとは誰なのか、1人なのか複数なのか、両叙事詩の作者なのか、文字の助けを借りて創造したのか、何時なのか、何処でなのか、こういった諸問題を称して「ホメーロス問題」と呼びます。

習字は、「星涼しギリシアの」は控えめに、「詩」は曲線的に大胆に、「時を越え」は直線的に、というつもりで書きました。


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オケラ 30 ダレイオス3世

昨日、昼飲みの嬉しいお誘いがあり、しっかり楽しく頂きました。で、朝はランを休みバイクを漕ぎました。嫁さんは習字を教えに小学校に行きましたが、バイクがかからず苦労しました。

 「世界史1200人」30 ダレイオス3世(?〜前330)

ペルシア帝国の最後の王である。即位して間もなくマケドニアアレクサンドロスの侵攻を受けたため、背後のイッソス市近郊に回り、後方に残されていたマケドニア軍の負傷兵を殺戮した。この報せが伝わると、アレクサンドロスは直ちに軍を戻したため、ダレイオス3世は逃亡し、ペルシア軍の大敗に終わった。その後の戦いでも、夜襲を警戒して軍に武装したまま夜警を行わせ、却って士気を損なったりして結局敗れて再び逃走した。そして逃走中にバクトリア総督のベッソスに殺害され、ペルシア帝国は滅亡した。

「ペルシアの栄光悲しオケラかな ダレイオス3世 に 端遊」

オケラが6月の季語です。コオロギに似ていますが土中で生活している螻蛄の俗称です。俳句では螻蛄は闇・夜と組合せることが多いようです。一文無し・アホ・バカの意味もあります。そもそもペルシア帝国では、宦官バゴアスを中心とした宮廷陰謀により、王位継承適格者が相次いで死去し、傍系の王族の彼が即位して、伝統的アケメネス朝ペルシアの王名であるダレイオス(よきものを保持する者)を名乗りました。

習字は、「ペルシアの栄光」はスッキリと、「悲し」は大胆に、「オケラかな」は惨めなように、というつもりで書きました。


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