川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

バッタ 100 ウァレリアヌス

昨夜は何だか寒くて、冬に着るパジャマを着ました。 チョッと風邪を引いたせいもあるのですが・・・朝は隣町に行き、3人でいつものコースを楽しく走り、おしゃべりして来ました。

「世界史1200人」100 ウァレリアヌス(190〜260)

息子を共同皇帝として西半分を統治させ、自身は東を受け持ち、259年、ウァレリアヌスは軍勢を率いてペルシアへと侵攻したが、「エデッサの戦い」でシャープール1世率いるペルシア軍との戦いに敗れて捕虜となってしまう。この戦いで約7万のローマ将兵の多くが戦死または捕虜となったこともあり、戦いの全貌については不明な点が多いが、ごく僅かの死傷者に留まったペルシア軍の大勝であったことは間違いが無い。その後ウァレリアヌスは、捕囚としてほどなく死んだとも、奴隷の身に墜とされたとも、皮剥ぎの刑に処されたとも伝えられ、その最期は定かではない。皇帝自身が敵国に捕らえられるなどという失態は、長いローマの歴史を通しても前代未聞の事態であった。この事件は帝国の国力低下を象徴する出来事となり、以後ローマ世界は30人僭帝時代と称する大混乱に陥ってゆく。

「王無策右往左往のバッタかな ウァレリアヌス に 端遊」

バッタが10月の季語です。時には大集団で移動するバッタを約7万のローマ将兵に掛けました。皮剥ぎの刑とは、罪人の全身の皮膚を刃物などを使って剥ぎ取る処刑法で、古代よりオリエント、地中海世界、中国など世界各地で行われていました。全身の皮膚を失った罪人は、長時間苦しんだ後に死に至ります。この刑の解説の中では「ウァレリアヌスは皮剥ぎの刑に処され、ペルシャ王シャープール1世はその皮を赤く染め、神殿に掲げた」とあります。

習字は、「王無策」は弱々しく、「右往左往の」は大胆に、「バッタかな」は幼く、というつもりで書きました。


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猪(シシ) 99 マクシミヌス

 朝、一人で海沿いをロングランして来ました。この頃、嫁さんと話すのですが、良い国・良い時代に生まれたと思います。ただ、僕達が死ぬ頃には、悪い国・悪い時代になっているかも、とも話します。

「世界史1200人」99 マクシミヌス(173〜238)

軍人だったが親衛隊により皇帝の指名を受け、軍人皇帝時代の幕開けとなった。マクシミヌスは生粋の軍人であり、ゴート族などの北方蛮族討伐で目覚しい戦果を挙げ、北方防衛線の堅持というローマの安定と平和に貢献した。一方で、ローマの貴族階級を憎み、自身に対して陰謀を企てたと疑ったものには容赦しなかった。 また、粗野で無教養な書簡などが上流階級を自負する元老院の侮蔑と憎悪を買い、彼らの陰謀により親衛隊に暗殺された。言い伝えでは、マクシミヌスは「身長が約2.6mである」「少なくとも、彼は恐ろしい風貌の巨大な男だったので、よく訓練されたギリシア人のアスリートや蛮族のエリート戦士でさえも比較にならなかった」などとあるが、これは彼を野蛮な無法者と見なし、兵士のイメージが一般市民に呼び起こした賞賛と嫌悪を強調したのではないかとも考えられている。

「凱旋も猪(シシ)と揶揄され謀られて マクシミヌス に 端遊」

猪(シシ)が10月の季語です。粗野の代表のような動物でマクシミヌスに掛けました。北方蛮族に対して防衛線を越えて侵攻できるほどに優勢であったローマ自身が、その司令官の足をすくったことで、後の国内を蹂躙される時代(3世紀の危機)を招くことになりました。ローマは以後、内戦状態に突入し、以後、284年まで皇帝が乱立する状態が続くことになります。

習字は、「凱旋も」はスッキリと、「猪と揶揄され」は強弱を付けて、「謀られて」は弱々しく、というつもりで書きました。


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案山子 98 アレクサンデル

 金曜日に本を借りてきたので、土曜日・日曜日は本を読んで過ごしました。今日の朝はいつものように、一人で海沿いをロングランして来ました。足がどうしてか重く感じました。

「世界史1200人」98 アレクサンデル・セウェルス(208〜235)

セウェルス朝最後の皇帝である。従兄のヘリオガバルスとは対照的に倫理的に清廉な人物であることに努め、10年程度の治世で帝国の風紀は大きく改められた 。多くの改革を行ったとされ、破綻しつつあった国庫を建て直すために緊縮財政政策や、貨幣に含まれる鉱物量を増減させての貨幣価値調整などを図っている。民に対しても減税や文化学問への補助金などの政策を行い、対立する軍にも兵士階級の待遇改善などを進めた。そして高利貸しを防ぐために国営の銀行を開き、安い金利で資金を貸し出したとされる。宗教的にも善良な政策を進め、同じエル・ガバル神への関わりを持ちながら、先帝とは異なり既存の宗教を刺激しなかった。そればかりか、迫害されていたユダヤ教キリスト教にも寛大であったとされる。

「争わず民を笑顔に案山子です アレクサンデル に 端遊」

案山子(カカシ)が10月の季語です。鳥を追い払うために田の中に立てた人形です。真っ直ぐで、少し役に立ち、少し悲しいアレクサンデルに掛けました。アレクサンデルは、東方で勢力を増しつつあったササン朝ペルシャ帝国の脅威に晒されつつも、軍事行動を控えて平和路線をとっていました。さらに、ゲルマニア方面での軍事作戦に消極的な態度を繰り返したことで軍の不興を買い、最終的に下級軍人マクシミヌス・トラクスを中心にした反乱軍によって殺害されました。

習字は、「争わず」はスッキリと、「民を笑顔に」は笑うように、「案山子です」は幼く、というつもりで書きました。


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無花果 97 ヘリオガバルス

 朝、一人で海沿いをロングランして来ました。昨日、軽かった足は、一転して重くなりました。歳を感じました。シャワーを浴びて体重を測ったら、53.2kgと先週より1.2kg増えていました。今がベスト体重の感じがします。

「世界史1200人」97 ヘリオガバルス(203〜222)

セウェルスの遠縁で、14歳で皇帝に即位した。ローマ史上最悪の王ともいわれる。彼の統治は今までに登場した如何なるローマ皇帝達をも越える、ローマ史上最も特異な君主であったと言える。ヘリオガバルスは放縦に興じ、色欲に明け暮れた。更にその性癖も特殊で大衆を驚かせた。また、宗教面でも従来の慣習や制度を無視して両性具有のエル・ガバルを主神とするなど奇抜な政策を行った。皇帝は全裸で廷臣や警護兵を甘い声で誘い、男娼として売春する一方、金髪の奴隷ヒエロクレスに対しては「妻」として付き従い尽くした。ヘリオガバルスは他の男とも関係を持っていた。それを知ったヒエロクレスは「妻」である皇帝の不貞をなじり罵倒し、しばしば殴打におよんだ。そして、皇帝は殴られて弱りきった自分を見て悦んだという。

無花果の熟れて爛れて葉は知らず ヘリオガバルス に 端遊」

無花果(イチジク)が10月の季語です。日本の無花果は受精せずに果実を作ります。両性具有のようなヘリオガバルスに掛けました。また、その葉はアダムとイブを覆いましたが・・・全ての後ろ盾を失ったヘリオガバルスは、母ソエミアスとともに反乱軍に捕らえられ、2人は揃って処刑され、遺体は激昂した市民たちによって切り刻まれたうえテヴェレ川に捨てられたといいます。

習字は、「無花果の」はサラリと、「熟れて爛れて」は粘っこく、「葉は知らず」はスッキリと、というつもりで書きました。


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芒 96 カラカラ

 朝、一人で海沿いをロングランして来ました。足が軽く、少し早いスピードで入ったので、途中でバテるかなと思いましたが、ガクンと落ちることはなく、最後まで楽しく走れました。

「世界史1200人」96 カラカラ(188〜217)

本名はアントニヌスでセウェルスの子。カラカラとは帝が好んで着たフード付き上着のこと。父の死後、弟のゲタと二帝統治を行うが争いが絶えず、211年、カラカラは母が用意した和解の場で弟を殺害するという凶行に及んだ。ゲタは駆けつけた母親の腕の中で息絶えたが、カラカラは厚顔無恥にも「弟から身を守った」と言った。暴政が本格化するのは東方属州へ移住した213年からとなる。巨費を投じて街中に自分の別荘や劇場を建て、資金が足りなくなると裕福な商人や貴族の財産を没収したり、法外な重税を強いたりした。東方属州最大の都市であるアレクサンドリアでは、カラカラが実の弟を殺害したことを揶揄する詩が流行した。この噂を聞きつけたカラカラ帝は、民衆の誤解を解く場を持ちたいと提案し、弁明を聞くために集まった民衆を兵士に虐殺させた。更に、数日間にわたって市内を徹底的に破壊して民衆を殺戮した。2万名以上の住民が殺害されたという。カラカラはカルラエ近郊の神殿に向かう途中、軍列を止め、道端で放尿している所を、後ろから刺されて絶命したとされている。暗殺理由は個人的なもので、数日前に親族が無実の罪で処罰されたことに対する復讐であったとされる。

「カラカラの虐殺の地に芒群れ カラカラ に 端遊」

芒が9月の季語です。荒地によく群れ咲いています。「カラカラ」は殺伐とした擬音として使いました。巨大な公共浴場(カラカラ浴場)を建設して淫蕩にふけったこと、アレクサンドロス大王の再来を自称して各地に遠征して軍事費がかさみ、税増収のため帝国内の全自由民にローマ市民権を与えた(アントニヌス勅令)ことなどでも有名です。

習字は、「カラカラの」は乾いた感じで、「虐殺の地に」は一画毎に力を込めて、「芒群れ」はサラリと、というつもりで書きました。一画毎に力を込めることが、少しできました。


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草の花 95 セウェルス

 朝、隣町に行こうとバイクを出したら、雨が降っていました。もう一度様子を見ましたが、止みそうもないので休みとして、メールを出しました。携帯を持っていない友には、固定電話に掛けたのですが、出ないので奥さんにメールしました。大丈夫かなと思っていたら、他のラン友から連絡ついたとのことで安心しました。

「世界史1200人」95 セプティミウス・セウェルス(146〜211)

北アフリカの騎士の家系出身だが、軍隊により皇帝に推され、セウェルス朝を創始した。セウェルスはアウレリウス帝とコンモドゥス帝の親子二代に仕え、ローマの貴族階級における典型的な経歴を歩んだ。五皇帝の年(一般には193年に5人の皇帝が擁立されたことで五皇帝の年と呼ばれる)で頭角を現して有力な皇帝候補となり、ペルティナクス帝の死後に実権を掌握した。彼は存命中の皇帝を失脚させて自らが皇帝に即位した。皇帝となった後、二人の僭称帝との戦いを打ち破り、またオスロエネ王国に対する外征にも勝利して、ローマ領を東方へ拡大した。体制を固めたセウェルスはより大胆な外征を計画し、大勝を得てティグリス川沿いまで領土を拡張した。同時に東方属州の拡大と強化に熱意を注いだ。故郷の属州アフリカでも外征を行い、領土を南の砂漠地帯にまで広げた。治世後半も戦いに明け暮れる日々を過ごした。セウェルスの死もそうした戦いの最中で起き、ブリタニア遠征中にエボラクムで病没した。

「戦って戦い抜いて草の花 セウェルス に端遊」

草の花が9月の季語です。遠征地で病没した彼の周りには草の花が囲んでいたのでは、とイメージしました。211年、危篤に陥ったセウェルスは二人の息子達に「共に仲良くせよ。軍を富ませよ。他は無視せよ」と言い遺し、病没後は直ちに神として神殿に祭られた。後に兄のカラカラは弟のゲタを殺害しました。

習字は、「戦って」はスッキリと、「戦い抜いて」は途切れないように、「草の花」はしっとりと、というつもりで書きました。


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草相撲 94 コンモドゥス

 朝、一人で海沿いをロングランして来ました。久しぶりに左膝にサポーターをしたので、行きは片足を引きずる感じがして、疲れました。幸い帰りは慣れて、気にしないで走ることができました。

「世界史1200人」94 コンモドゥス(161〜192)

マルクス・アウレリウス・アントニヌスの子。父アウレリウスはコンモドゥスの教育を自ら手がけ、博学な知識を生かして様々な学問について息子に教えた。父の死後、しばらくコンモドゥスドナウ川軍団の総司令官として前線に留まりつつ、際限のない蛮族との戦いを終わらせるための講和を模索した。即位から暫くは重臣と協力して統治を行っていたが、次第に貴族達の堕落した生活に毒されていった。そして、治世が大きく狂い始めるのは家庭内の不和によるところが大きかった。ある時、劇場を訪れた皇帝の姉ルキッラは、后妃に皇帝の隣席を譲るように促され屈辱を感じ、弟の暗殺と帝位簒奪を計画する。暗殺は失敗に終わり、暗殺者2人は処刑され、姉はカプリ島への流刑とされた。しかしコンモドゥスによる粛清は厳しく、無関係の者も含めて大勢の貴族や将軍が処刑された。以後、腹心の増長と裏切りなどもあり、闘技や見世物などに熱中したり、自らを神格化したりして暴虐帝と称されるようになり、最期は暗殺された。

「草相撲暴虐帝の幼な顔 コンモドゥス に 端遊」

草相撲が9月の季語です。コンモドゥスは並外れて闘技が強かったそうで、小さい頃に草相撲をして笑っていた暴虐帝をイメージしました。・・・それで、近衛兵による暗殺は難しかったようで、ワインに毒薬を入れて毒殺が試みられました。飲み干してコンモドゥスはしばらくは平然としていましたが、突然に毒に気づいてワインを吐き出しました。彼は食事の前に必ず解毒剤を一緒に飲むので、致命的には至らなかったのです。慌てた重臣たちは、護衛の剣闘士ナルキッソスを差し向け、絞殺させました。

習字は「草相撲」は幼く、「暴虐帝の」は特に「暴」を激しく、「幼な顔」はサラリと、というつもりで書きました。


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