川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

花野 351 山崎宗鑑

 金曜日から日曜日まで、台風のため家でのんびりと過ごしました。今日の朝は、久しぶりに一人で海沿いを走って来ました。帰って草取りなどもしました。

「日本史1200人」351 山崎宗鑑(?〜1554)

連歌師俳諧連歌の祖。足利義尚に仕えたとされる。最初連歌師を志したが、天性の洒落気を持つ宗鑑には貴族的な連歌の世界は肌に合わず、より自由な俳諧の世界へと足を踏み入れた。座興として捨てられていた俳諧を丹念に記録・整理して俳諧撰集の草分けである「犬筑波集」を編み、独立した芸術として世間に公表した。自由奔放で滑稽味のあるその句風は、江戸時代初期の談林俳諧に影響を与えた。1554年、一夜庵で「ヨウ(できもの)」を患いそのために命を失い、辞世は「宗鑑は いづくへと人の 問うならば ちとよう(ヨウ)がありて あの世へといへ」。

「あの世では歌の花野を徘徊じゃ 山崎宗鑑 に 端遊」

花野が9月の季語です。草花が咲き乱れる草原です。あの世ではヨウ(できもの)もへっちゃらで徘徊しただろうな・・・讃岐国(香川県観音寺市)興昌寺の「一夜庵」の入口には「上の客人立ち帰り、中の客人日帰り、泊まりの客人下の下」と記されていたといいます。建物は修復を重ねながら現地に残されています。宗鑑は能書家としても知られます。時に粗略と思われるほど荒削りで自由奔放な筆運びで、後に「宗鑑流」と認められる書体系を確立しました。筆耕を生活の糧としていました。

習字は、「あの世では」はサラリと、「歌の花野を」は優しく、「徘徊じゃ」は楽しく、というつもりで書きました。


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夜長 350 宗祇

 今日も台風が近づいているので、部屋でバイクを漕ぎました。シャワーを浴びてから体重を測ったら53.8kgと先週より0.8kg増えていました。今週は明らかに食べました。

「日本史1200人」350 宗祇(1421〜1502)

連歌師。正風連歌を確立した。若くして上洛し、相国寺の僧坊に入ったことがあった。30歳ごろから和歌・連歌に専念し、1461年独吟の「何人(ナニヒト)百韻」が現存する最初の連歌作品で、それ以後、諸所の連歌会に一座し頭角を現し、宗砌風に心敬風を取り入れて連歌を大成する。1473年の帰京後は、種玉庵の草庵を営み、やがて連歌界の第一人者となって活躍する。1495年に准勅撰連歌集「新撰菟玖波集」を撰集し、その後、諸国を旅して歩いた。

「一座して付句付句の夜長かな 宗祇 に 端遊」

夜長が9月の季語です。もう一仕事できそうな秋の夜長です。一座は同席することですが、連歌会に似合います。鎌倉期には100句を連ねることが基本となりました。宗祇は旅の詩人として、さまざまの伝説が生じ、芭蕉などにも影響を与えています。また、肖像も複数残り、国立歴史民俗博物館の寿像は重要文化財で、ボストン美術館の狩野元信の花押がある騎馬図も有名です。

習字は、「一座して」は控えめに、「付句付句の」は大胆に、「夜長かな」はサラリと、というつもりで書きました。


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きりぎりす 349 二条良基

 朝、台風が近づいて来たので、家でバイクを漕ぎました。18年前の今日、島に引っ越してきました。お祝いです!

「日本史1200人」349 二条良基(1320〜1388)

公卿、歌人。和歌と連歌に長け、僧・救済と共に准勅撰連歌集「菟玖波集」を編纂し、連歌の地位を高めた。また、当時社会的評価が低かった猿楽能に理解を示して、少年時代の世阿弥に対して保護を加えたことも知られている。その一方で足利尊氏・義満に深く接してその後ろ楯を得て、5度(数え方によっては4度)にわたって摂政・関白の座に就くなど、権力や名誉に対しては飽くなき野心家として見られることも多い。

「きりぎりす歌を名誉を果てるまで 二条良基 に 端遊」

きりぎりすが9月の季語です。「アリとキリギリス」のように、死ぬまで何度も歌うので、良基に掛けました。良基に嫌悪感を持つ人は少なくなかったのですが、3度にわたって南朝軍に京都を追われた苦い経験から、武家政権との連携の重要性を熟知して朝幕関係の安定化に努めたことは高く評価されています。

習字は、「きりぎりす」は控えめに、「歌を名誉を」は大胆に、「果てるまで」はサラリと、というつもりで書きました。


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大文字 348 一条兼良

 朝、一人で海沿いを走って来ました。ロングラン三日目ですが、台風で明日から雨なので走りました。

「日本史1200人」348 一条兼良(1402〜1481)

学者。太政大臣、関白を務めるが短期間で辞任に追い込まれた。その後は不遇をかこったが、学者としての名声は高まり、将軍家の歌道などに参与した。「源氏物語」の注釈書のほか多数の著書を残し、当時の人々からは「日本無双の才人」と評され、兼良自身「菅原道真以上の学者である」と豪語しただけあって、その学問の対象は幅広く、有職故実の研究から、和歌・連歌能楽などにも詳しかった。主要著作は70歳を過ぎてからのものであり、その後女児3人をもうけるという精力家であった。

「天才と絶倫と書け大文字 一条兼良 に 端遊」

大文字(ダイモンジ)が8月の季語です。本来は大の形に焼かれた、精霊の送り火です。句はまァ天国から叫んでるイメージです・・・兼良の養生法はかなり専門的で実践的でした。着目した薬類は、舶来の人参・甘草など十七種と、国内産の山薬など十八種で、こうした生薬をもとに常備薬、救急薬の精製に通じていました。

習字は、「天才と」は幼く、「絶倫と書け」は強く、「大文字」は大胆に、というつもりで書きました。


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大豆 347 東常縁

 朝、一人で海沿いを走って来ました。台風が本当に久しぶりに島に近づくようです。雨が降り、気温が下がれば最高です。

「日本史1200人」347 東常縁(1401〜1494)

武将、歌人室町幕府奉公衆として京都にあり、冷泉派でも和歌を学ぶが、二条派の尭孝に師事して学んだ。1455年に関東で享徳の乱が発生すると、8代将軍足利義政の命により、千葉兄弟を支援し転戦したが、成果は芳しくなかった。更に関東滞在中に応仁の乱が発生し、所領を斎藤妙椿に奪われた。しかし、これを嘆いた常縁の歌に感動した妙椿より所領の返還がかなった。その後、二人は詩の交流を続けたという。1471年には宗祇に古今伝授(「古今和歌集」の解釈を師から弟子に伝えること)を行い、後年「拾遺愚草」の注釈を送っている。

「歌が縁大豆採れたて送ります 東常縁 に 端遊」

大豆が8月の季語です。何しろ歌に感動して所領を返した仲ですから・・・常縁は古今伝授の祖として注目されますが、当時の歌壇の指導者であったわけではなく、むしろ二条派歌学の正説を伝えた歌学者としての功績が大きいです。

習字は、「歌が縁」はおおらかに、「大豆採れたて」は強弱をつけて、「送ります」はサラリと、というつもりで書きました。


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南瓜 346 桂庵玄樹

 昨日の日曜日は、本当は町議選の投票日でしたが、無投票になったのでのんびりと過ごしました。今日の朝は、いつものように一人で海沿いを走って来ました。

「日本史1200人」346 桂庵玄樹(1427〜1508)

朱子学者、禅僧。9歳のとき出家し、京都南禅寺豊後国万寿寺で学び、郷里の長門国永福寺住持となった。1467年には遣明船の三号船士官となって明に渡海して、蘇州などを遊学し朱子学を究めた。1473年に帰国したが、応仁の乱による戦禍から逃れるため石見国に避難した。1478年に島津忠昌に招かれて大隅国の正興寺、日向国の竜源寺の住持となり、さらに島津忠廉に招かれて薩摩国の桂樹院で朱子学を講じた。また、伊地知重貞と「大学章句」を刊行して朱子学の普及に努め薩南学派の祖となった。

「南瓜にも気の動き有り朱子は説く 桂庵玄樹 に 端遊」

南瓜(カボチャ)が8月の季語です。朱子学では存在するものは全て「気」から構成されると考えるそうで・・・玄樹は後に建仁寺南禅寺の住持となり、さらに薩摩に東帰庵を営み死去しました。著書に「家法倭点」「島陰文集」「島隠漁唱」など多数あります。

習字は、「南瓜にも」は大胆に、「気の動き有り」はトボけた感じで、「朱子は説く」はスッキリと、というつもりで書きました。


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初嵐 345 絶海中津

 朝、一人で海沿いを走って来ました。帰ってシャワーを浴びて体重を測ったら53.0kgと先週より0.6kg減っていました。よく食べたし、トイレは出ないし・・・不思議です。

「日本史1200人」345 絶海中津(1336〜1405)

夢窓疎石に師事。1368年に明へ渡り高僧らから教えを受け、太祖の洪武帝(朱元璋)から謁見を許されている。明への渡海では多くの高僧らと出会ったことで、俗的詩文の風と四六文の技法を身につけたと言われている。中津は多くの寺の住持となるが、一連の激しい動きは、明徳の乱などの戦乱や将軍・義満との対立・和解が原因とも言われている。1399年に起きた応永の乱においては、義満に反旗を翻した大内義弘の陣へ、義満の命を受けて説得に赴いている。

「明帰り畏怖と疑念の初嵐 絶海中津 に 端遊」

初嵐が8月の季語です。本来は秋に入って初めて吹く強風のことです。将軍とどんな対立・和解があったのかな・・・後小松天皇称光天皇らも中津に帰依した人物の一人であり、その死後には国師の勅命による追贈を行ないました。また、「絶海和尚語録」や「蕉堅藁」(詩文集)などの著作が伝わっています。

習字は、「明帰り」はサラリと、「畏怖と疑念の」は剛柔をつけて、「初嵐」は大胆に、というつもりで書きました。


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