川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

風光る 478 三好長慶

昨日お腹を壊してしまい、正露丸を飲んで、ホカロンを貼って、アノラックを着てじっとしていました。今日も不安だったので、ランは休みました。じっとして本を読んでいたせいか腰も痛くなりました。歳だなァ〜

「日本史1200人」478 三好長慶(ナガヨシ;1522〜1564)

畿内阿波国戦国大名。父・三好元長が堺顕本寺で敗北したとき阿波に逃れ、翌年12歳ながら三好軍を率いて早くも畿内戦線に登場した。細川晴元の被官となったが、晴元に寵愛されていた同族政長と対立してこれを破り入京を果たした。さらに細川政権を事実上崩壊させ、室町幕府将軍の足利義晴・義輝を京都より放逐し、1553年に三好政権を樹立した。しかし室町幕府の機構を払拭できず、1558年に義輝と講和して入京させ、京都支配を放棄した。以後は河内・大和を配下に収め、本拠を河内飯盛城に移した。晩年は政事に倦み、病身の上に精神に異常をきたし、実子・実弟らを失い、松永久秀の密告で腹心の安宅冬康まで殺害して、その政権は弱体化した。

風光る政権樹立!尻まくり 三好長慶 に 端遊」

風光るが4月の季語です。人も風景も風と共に光っているようです。政権樹立にお似合いです。政権の放棄を尻まくりとしましたが、シリ・ケツどちらでも結構です・・・和歌・連歌など文学に優れ、キリスト教の布教も黙許するなど、新文化の理解者といわれます。

習字は、「風光る」はサラリと、「政権樹立」はそれなりに、「尻まくり」は大胆に、というつもりで書きました。習字、数えたら1002枚目で、いつのまにか1000枚を超えていました。


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亀鳴く 477 足利義昭

朝、善福寺川沿いを走ってきました。早咲きの桜が散らないでしっかり咲いているのに驚きました。嫁さんは学校のことで、いっぱい楽しいことがあるようです。

「日本史1200人」477 足利義昭(ヨシアキ;1537〜1597)

室町幕府第15代将軍、12代将軍・善晴の次男。兄の義輝が永禄の変で殺害されると、義昭も幽閉された。このときは僧であったが、細川藤孝の力を借りて近江国の和田氏のもとへと脱出すると、還俗して義秋と名乗った。そして将軍家再興を目指して越前・朝倉氏を頼って身を寄せ、そこで元服して義昭に改名した。しかし朝倉義景に上洛の意志がないことがわかると、明智光秀を介して織田信長を頼った。信長は義昭を擁立して上洛し、念願の15代将軍になったが、実権を握ったのは信長だったため、義昭は信長追討を画策した。朝倉・浅井・六角・武田氏、そして本願寺と連携して信長包囲網を形成し、1573年に自ら山城国・槇島城で挙兵したが、信長軍に破れ追放された。ここに室町幕府は滅亡し、義昭は出家後に病死した。

「宜ぴく!と亀鳴く人は踊らない 足利義昭 に 端遊」

亀鳴くが4月の季語です。亀は鳴きませんが、首を長くして他人(ヒト)を頼る義昭は鳴く亀のようです・・・京を追放された義昭は毛利氏を頼りましたが、信長の死後は豊臣秀吉の天下統一事業が始まり、将軍家再興の夢は潰えました。秀吉の征夷大将軍の就任願いは断固拒絶しました。

習字は、「宜ぴく!と」は明るく、「亀鳴く人は」はそれなりに、「踊らない」は弱く、というつもりで書きました。


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春の日 476 京極高次

朝、善福寺川沿いを走ってきました。これから自分一人の時間がグッと増えるので、何をするか楽しい試行錯誤です。

「日本史1200人」476 京極高次(タカツグ;1563〜1609)

近江国戦国大名、守護・京極高吉の子。浅井長政の庇護のもとで成長し、足利義昭に仕えていたが、義昭が織田信長と対立すると信長のもとで人質となった。本能寺の変では明智光秀につき、光秀が討たれると、妹の竜子の夫である武田元明を頼った。ところが秀吉は元明に自害を命じ、美女として知られた竜子を側室にした。竜子は高次の救済を懇願したため高次は許され、秀吉に仕えることになった。その後は出世を重ね1586年に大溝城を、1595年には大津城を得て、石高は6万石に至った。高次の出世は自身の功ではなく、妹や妻・初の尻の光(閨閥)に拠ったと陰では蛍大名と囁かれた。秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは西軍を大津城に引きつけて、東軍のために功績をあげ、家康の信頼を得て若狭国・大名となった。

「春の日の妻妹にご平伏 京極高次 に 端遊」

春の日が4月の季語です。明るく暖かい日です。繁栄の意味も込められそうです。高次の出世は自身の誠実さも大きく、蛍とまでは言えないと思います・・・イエズス会の1603年度年報には、「京極マリアの息子と奥方が洗礼を受けているが、公方様を怒らせるのではとの不安のため、あえて公表していない」とあります。

習字は、「春の日の」は柔らかく、「妻妹に」はそれなり、「ご平伏」は弱く、というつもりで書きました。


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朧(オボロ) 475 浅井長政

昨日は嫁さんの都立工芸高校の入学式でした。与那国島に移住して20年が過ぎ、幸せな再出発を迎えることができました。


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入学式を終えて阿佐ヶ谷に帰り、二人の大好きな居酒屋で乾杯をしました。夜遅く寝たので、今日の朝はゆっくり起きて善福寺川沿いを走ってきました。

「日本史1200人」475 浅井長政(1545〜1573)

近江国戦国大名。15歳で軍を率いて六角氏軍を破り、家臣らの勧めにより16歳で家督を継いだ。織田信長が同盟を求めてきた時には“父・久政との盟友・朝倉義景を独断で攻めない”との条件を付け、信長の妹・お市の方正室に迎えた。ところが1570年に織田軍が朝倉氏に侵攻したため、長政は旧敵の六角氏とも組んで、織田軍を撃退した。しかし、織田軍は直ぐに報復攻撃に来て、姉川での戦いでは大敗した。長政は比叡山延暦寺一向宗とも連携して信長と対するが、比叡山は焼き打ちにあい、敗勢が濃くなってきた。信長が信玄の死と共に、1573年に総攻撃をかけてきたため、義景とともに戦ったが小谷城は包囲された。降伏勧告の使者が来たが長政は受け入れず、お市の方と茶々・初・江の3人の娘を織田軍に送り出した。

「爽やかに弱きを助け身は朧(オボロ) 浅井長政 に 端遊」

朧(オボロ)が4月の季語です。春の夜の物や音のぼんやりした様をさしますが、魚のすり身・そぼろの意味もあり、これを長政に掛けました・・・浅井・朝倉軍が織田軍を北近江に引きつけている隙に、武田信玄が西上を開始しましたが、義景が越前に帰ってしまったため、信玄の計画は頓挫しました。

習字は、「爽やかに」はスッキリと、「弱きを助け」はそれなりに、「身は朧」は弱く、というつもりで書きました。


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桜餅 474 朝倉義景

朝、雨が降っていたのでランは休みました。今日は嫁さんの都立工芸高校の入学式です。式は5時半からなので、家を出る頃には雨が止みそうです。

「日本史1200人」474 朝倉義景(ヨシカゲ;1533〜1573)

越前国戦国大名。1552年に父の死により家督を継いだ。将軍足利義輝が死ぬとその弟が還俗して、1566年に義景を頼って越前に来、一乗谷城元服して義昭と名乗った。義景に擁立されての上洛を望んだが果たせず、その年のうちに織田信長に奉じられて上洛した。 信長は諸将に上洛を命じたが、義景が応じなかったため1570年に越前に侵攻した。北近江の浅井氏が朝倉方に呼応したため、かろうじて信長を撃退したが、2ヶ月後、体勢を立て直した信長軍に敗退した。1572年、信玄が西上を開始した絶好の機会に、義景は部下の疲労と積雪のため突然撤退し、武田信玄本願寺の非難を浴びた。翌年義昭を追放した信長が浅井攻めを再開すると、義景は再び近江に出陣したが、多くの重臣が寝返り大敗を喫し、再起もできず六坊賢松寺で自害した。

「駆け引きは上手いつもりの桜餅 朝倉義景 に 端遊」

桜餅が4月の季語です。中に餡を入れ塩漬けの桜の葉で包んだ甘い餅です。何となく判断の甘い義景に掛けました・・・義景は一乗谷城に京から多数の文化人を招き、和歌・連歌・猿楽・絵画・茶道・作庭などの文化の拠点をつくりました。

習字は、「駆け引きは」はニヤリと、「上手いつもりの」はスッキリと、「桜餅」は甘く、というつもりで書きました。


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虻 473 斎藤龍興

朝、善福寺川沿いを走ってきました。明日、強い雨が降りそうなので、今日で桜は見納めかなと思いながら走りました。

「日本史1200人」473 斎藤龍興(タツオキ;1548〜1573)

美濃国戦国大名。父・義龍の死により14歳で家督を継いだが、祖父や父と比べると凡庸で、家臣の信望を得ることができなかった。1567年には家臣が信長に内応した為、遂に稲葉山城を落とされ北伊勢の長島へと退散した。当時20歳で、以降は再び大名として美濃に返り咲くことはなかった。亡命した龍興は1570年に始まる長島一向一揆に参加し、信長に対する抵抗を継続した。また、三好三人衆と結託して、信長が擁立した室町幕府将軍・足利義昭を攻め殺そうとしたが敗退した。その後、越前国朝倉義景の下へ保護され、1573年に義景が信長と対決するために出陣した際にも従軍したが、敗れて刀禰坂で戦死した。

「信長め!めっめっめっと虻が飛ぶ 斎藤龍興 に 端遊」

虻(アブ)が4月の季語です。うなりながら人や家畜に飛んで来て血を吸います。何やら龍興のようです・・・興国寺の伝説によると、龍興は戦死してはおらず、1569年に興国寺に隠れ、九右ェ門と改名し付近の原野を開拓して住みつきました。江戸時代に入った1611年に家督を子に譲り、興国寺の住持となりました。興国寺には、龍興が持参したという鎧鞍と念持仏が伝えられています。

習字は、「信長め!」は恨んで、「めっめっめっと」は強く、「虻が飛ぶ」は弱く、というつもりで書きました。


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春の果て 472 斎藤義龍

朝、雨が降っていたので、ランは午後にしようと思っています。昨日は与那国島で出会った友達と楽しく皇居のお花見をしました。

「日本史1200人」472 斎藤義龍(ヨシタツ;1527〜1561)

美濃国戦国大名。道三の子であるが、土岐頼芸の子ともいわれる。1554年、道三が隠居したため、家督を継いだとされる。その後、道三は義龍を「耄者ホレモノ;愚か者の意」と断じ、「利口者」の孫四郎や喜平次らを溺愛するようになる。ついには道三が孫四郎を嫡子にしようとしたため、義龍は叔父と共謀して孫四郎・喜平次らをおびき出して殺害した。道三は大桑城に逃走し、長良川にて対峙したが、道三を支持する勢力は少なく、討ち果たした。織田信長が道三を救援に来たが間に合わなかった。尾張織田家との戦闘が続く中で病死した。辞世は「三十余年、守護天入、刹那一句、仏祖不伝」である。

「春の果てどうせ耄者(ホレモノ)父殺し 斎藤義龍 に 端遊」

春の果てが4月の季語です。春を“家督を次ぐまでの道三・義龍親子”と見立てました・・・義龍の父親は道三だと認めている第三者の手紙があり、義龍は父殺しの汚名を避けるためか、足利氏の一門である一色氏を称して、一色左京大夫と名乗りました。

習字は、「春の果て」は弱く、「どうせ耄者」は叫ぶように、「父殺し」は狂ったように、というつもりで書きました。


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