川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

煤払(ススハライ) 403 津軽為信

昨夜は、向かいの友から美味しい天ぷらと刺身を頂き、旨い酒を飲みました。朝は雨が降っていたのでバイクを漕ぎました。

「日本史1200人」403 津軽為信(1550〜1608)

武将、大名。出自には様々な説や伝承がありはっきりしない。記録では、21歳の時に、城工事を装いながら突如攻略して、南部宗家当主の叔父・石川高信を自害に追い込んだ。また、28歳の時には、放火・撹乱により浪岡城を落城させ名門・北畠顕村を自害させた。さらに周辺に勢力を拡大し、39歳の時に、豊臣秀吉に名馬と鷹を献上し、津軽三郡と合浦一円の所領を安堵された。小田原征伐の際には家臣18騎を連れて秀吉に謁見し、兵1,000を連れて参陣した南部信直に先駆けたために、大名として認知されることに成功した。また近衛家に接近して金品や米などを贈り「自分は前関白の祖父の落胤」と主張し、形式上は、秀吉と為信は義兄弟となった。関ヶ原の戦いでは東軍に参加したが、嫡男・信建は西軍にあった。

「悪も善!嘘も方便!煤払(ススハライ) 津軽為信 に 端遊」

煤払(ススハライ)が12月の季語です。一年一回の大掃除です。為信も一年一回くらいは必要だったかな・・・弘前城には「館神」という守り神の稲荷社があり、稲荷様の後ろには厨子がありました。明治になってその「開かずの宮」の扉を開けると、中には豊臣秀吉の木像が入っていました。為信は幕府による改易の危険を顧みずに、津軽家を大名にしてくれた秀吉を城内に祀っていたのです。

習字は、「悪も善!」はそれなりに、「嘘も方便」は嬉しく、「煤払」はサラリと、というつもりで書きました。


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