川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

御開帳 451 真田昌幸

朝、外に出たら雨がポツリと来たので、家でバイクを漕ぎました。嫁さんのパソコン購入になかなか手間取りました。

「日本史1200人」451 真田昌幸(マサユキ;1547〜1611)

戦国武将。真田幸綱(幸隆)の三男。11歳のとき人質として武田信玄の近侍となった。1575年、長兄・次兄が長篠の戦いで戦死したので家督を継ぎ、進出を重ねて沼田領一円を手に入れた。1582年の武田氏滅亡後は織田信長に仕えて本領を安堵され、本能寺の変後は徳川氏に属した。しかし、家康が沼田城北条氏直に与えようとしたため、上杉景勝と結んで徳川軍を上田城に迎撃して破った。関ヶ原の戦いでは西軍に属して上田城を死守し、そのため徳川秀忠は合戦に遅れてしまった。戦後は、長男・信之の助命嘆願により蟄居となった。昌幸は「比興の者」と言われた。現在では「卑怯」が当て字であるが「老獪」といった意味で、武将としては褒め言葉である。これは地方の小勢力に過ぎない昌幸が、周囲の大勢力間を渡り歩いた手強さを評したものである。

「大御所に比興(ヒキョウ)の策を御開帳! 真田昌幸 に 端遊」

御開帳が3月の季語です。厨子を開き秘仏を信徒に拝観させることですが、ここでは“全部見せるぞ!”という感じです。大御所は家康の尊称です・・・徳川を2度破った昌幸も、10年余り続いた流人生活で気力を萎えさせ、書状には「此の一両年は年積もり候ゆえ、気根くたびれ候・・・永々の山居、よろず御不自由御推察なさらるるべく候」とあります。

習字は、「大御所に」はサラリと、「比興の策を」はそれなりに、「御開帳」は楽しく、というつもりで書きました。


f:id:tanyuu4792:20240307111341j:image