川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

糠蚊 525 島津家久

昨日、2台のバイクが直りました。整備の方に迅速・丁寧な対応をして頂きました。今日の朝は海岸沿いを走ってから、気になっていた草取りをしました。1日分の仕事を終えた感じです。

「日本史1200人」525 島津家久(イエヒサ;1547〜1587)

戦国から安土桃山時代の武将、島津貴久の四男。若年の頃より祖父・忠良から「軍法戦術に妙を得たり」と評価されていた。1584年、龍造寺軍を迎え撃つべく、家久が総大将として島原に向かった。龍造寺軍は圧倒的大軍であったが、沖田畷の狭隘の湿地帯に誘い込み、釣り野伏せと呼ばれる得意の戦法により弓鉄砲で混乱させ、総大将の龍造寺隆信らを討ちとった。1586年には総勢6千余りの豊臣連合軍の先発隊を迎え撃ち、敵味方4千余りが討死する乱戦となったが勝利を収めた。その後、4兄弟の中では最も早く豊臣秀長軍と単独講和したが佐土原城で急死した。

釣り野伏せ糠蚊も味方それ行けイ! 島津家久 に 端遊」

糠蚊(ヌカカ)が6月の季語です。湿地の道に無数に集まって飛び交う虫で、マクナギ・メマトイなどとも言います。釣り野伏せ(ノブセ)は「囮が敵の前に出てから退却し、追撃する敵を伏兵が一気に叩く」戦術です・・・1575年に上洛した際には公家衆や堺の商人たちと交流し、数万騎にも及ぶ織田信長軍勢を見物したり、大和国多聞山城も見学して楊貴妃の間や城からの大和の素晴らしい景観を楽しんだりしました。

習字は、「釣り野伏」はそれなりに、「糠蚊も味方」はとぼけて、「それ行けイ!」は強く大胆に、というつもりで書きました。


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