川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

柘榴 107 オウィディウス

 朝、腰を痛めたので、ゆっくり歩き走りをしてきました。シャワーを浴びて体重を測ったら53.4kgと先週より2.2kg増えていました。昨日、フライ定食とフライドチキンを食べたからかな・・・

「世界史1200人」107 オウィディウス(前43〜後17)

ラテン文学の黄金期を代表する詩人で、官能的な恋愛詩などを残した。「恋の技法」は 3巻に分けて出版された作品である。教訓詩のパロディとして詠われ、異性を誘惑し、ものにするための手練手管のマニュアル本となっている。さらに、叙事詩の形式で詠まれた「変身物語」は宇宙開闢からユリウス・カエサルの神格化に至るまで、ギリシア神話ローマ神話におけるさまざまな変身をモチーフにした話を網羅的に集めたものである。人やニンフが木や岩、動物や花々に、あるいは星座へと、新しい身体を得て変身する神話譚が一貫して、「英雄韻律」として知られるヘクサメトロス(長短短六歩格)で次々と詠われていく野心的な詩作品である。15巻12000行あまりの大作で、一般にギリシアローマ神話の集大成と受け取られている。

「柘榴割る恋の手管を手引して オウィディウス に 端遊」

柘榴(ザクロ)が10月の季語です。花は「円熟した優雅さ」、実は「愚かしさ・結合」を表し、「実は人の味がする」との言い伝えがあります。この全体をオウィディウスの詩に掛けました。彼は存命中から絶大な人気を博しましたが、紀元後8年にアウグストゥス帝の命により黒海に面した僻地に追放され、そこで生涯を閉じました。追放の理由はよくわかっておらず、オウィディウス自身は理由を「一つの詩歌と一つの過誤に帰す」とだけ書きました。この意味をめぐって、後代の学者たちが膨大な議論を積み重ねることになりました。

習字は、「柘榴割る」は素朴に、「恋の手管を」を柔らかに、「手引して」はスッキリ、と句の内容に対して静かなものにしました。


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渡り鳥 106 ウェルギリウス

 朝、一人で海沿いをロングランして来ました。昨日アップダウンのきついコースを走ったので、今日は足が上がりませんでした。帰ってから嫁さんと、この頃の事、将来の事を楽しく話しました。

「世界史1200人」106 ウェルギリウス(前70〜前19)

ウェルギリウスは、ラテン文学の黄金期を現出させたラテン語詩人の一人である。「牧歌」「農耕詩」「アエネーイス」の三作品によって知られる。ヨーロッパ文学史上、ラテン文学において最も重視される人物である。「アエネーイス」は、全12巻。英雄アエネーアースが、トロイア陥落後、様々な辛労辛苦とカルタゴの女王ディードーとの悲恋を経てイタリアにたどり着き、現地王の娘との婚約とそれに反対する勢力との戦いを描く。単に神話的英雄を謡うにとどまらず、当時内乱を終結させたローマの実力者アウグストゥスの治世をアエネーアースに仮託し、褒め称える構造をもつ。ラテン文学の最高傑作とされる。この作品の執筆にウェルギリウスは11年を費やした。最終場面を書き上げる前に没したため未完である。

「定番は恋と出世よ渡り鳥 ウェルギリウス に 端遊」

渡り鳥が10月の季語です。アエネーアースの渡り鳥が、定番を創ったことを句にしました。ウェルギリウスは死の前にこの草稿の焼却を望みましたが、アウグストゥスが、可能な限り編集の手を加えないでの、刊行を命じたため世に出ることになりました。「アエネーイス」以後に書かれたラテン文学で、この作品を意識していないものはないそうです。

習字は全体に安っぽくし、「定番は」はスッキリと、「恋と出世よ」はアクを強く、「渡り鳥」はカッコを付けて、というつもりで書きました。渡り鳥は、僕にはどうにも三文役者です。


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葡萄 105 アウグストゥルス

 朝、隣町に行ったら急にランは休みになったので、一人で風車周りコースを走って来ました。久しぶりに東崎の灯台やアップダウンの広大な景色を見てきました。

「世界史1200人」105 アウグストゥルス(460〜511)

西ローマ帝国最後の皇帝である。父オレステスによって475年に皇帝として擁立された。しかし、それから一年も経たない内にゲルマン人の将軍オドアケルにより、父は死刑に、息子は退位に追い込まれた。オドアケル元老院を通じて「もはやローマに皇帝は必要ではない」とする勅書を東ローマ帝国の皇帝ゼノンへ送り、帝冠と紫衣とを返上した。退位後のアウグストゥルスは概して幸運だった。退位したときの彼はまだ若く、その家族はカンパーニャに送られ、そこで恩給をもらい余生を過ごしている。後にオドアケルが敗れた時も、新たに大王から恩給をもらい続けることができた。さらに、カンパーニャでは何百年も続くことになる修道院を建てるなどの業績を残した。

「父死刑息子恩給葡萄摘む アウグストゥルス に 端遊」

葡萄が10月の季語です。カンパーニャ地方はワインで有名なので、余生は葡萄を摘んだかな・・・通俗的に、アウグストゥルスの退位をもって西ローマ帝国の「滅亡」とみなされています。しかし、それ以前から西ローマ皇帝は一切の権威を失っており、実権はオドアケルに代表されるゲルマン人の将軍たちが握っており、「滅亡」の表現は「誤解を招く不正確で不適切な表現」として歴史学者より問題が指摘されています。

習字は、全体にふわりとし、「父死刑」は弱々しく、「息子恩給」はとぼけて、「葡萄摘む」はサラリと、というつもりで書きました。


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冬近し 104 テオドシウス

 昨夜、島外の若い記者さんたちと楽しいお酒を頂きました。帰っても深夜まで嫁さんと話し込んだので、今日はゆっくりです。

「世界史1200人」104 テオドシウス(347〜395)

ローマ帝国の内戦が続くという危機的状況のなかで即位したテオドシウス1世は、治世当初から宗教的内紛の解決に重点を置いた統治をおこなった。380年にキリスト教に帰依し、カトリック教会を国教とする旨の勅令を発した。翌381年にはコンスタンティノポリス公会議を招集して、現在でも東西の教会で使用され続けているキリスト教の基本要素、聖霊・教会・死者たちの復活などについての教義の詳細が文章化されることとなった。治世面では、バルカン半島一帯の政情の安定化に尽力したが、西ゴート族を駆逐することは困難と成り、同盟により定住を認めた。また、386年頃にはサーサーン朝ペルシア帝国との講和締結に成功し、長年係争の種であったアルメニアは両国間で分割された。そして、わずか4か月ではあったが、東西に分裂していたローマ帝国を実質的に1人で支配した。

「統一も分裂の種冬近し テオドシウス に 端遊」

冬近しが10月の季語です。キリスト教ローマ帝国も、統一は分裂の種でしかなかったのかな・・・臨終に際してテオドシウスは、二人の息子に、コンスタンティノポリスを首都とする東ローマ帝国と、メディオラーヌムを首都とする西ローマ帝国とを分与しました。このため、帝国は東西に分裂しました。

習字は、「統一も」はスッキリと、「分裂の種」はそれらしく、「冬近し」はデザイン的に、というつもりで書きました。お酒が残っていて集中できず、イマイチです。


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夷講(エビスコウ) 103 ユリアヌス

朝、 台風18号のせいで天気が不順なので家でバイクを漕ぎました。雨が時々降り、植物は喜んでいるようです。

「世界史1200人」103 ユリアヌス(332〜363)

ユリアヌスは帝位に就くと、キリスト教の異端も認めた。この改革の目的は、かつての伝統に回帰することであった。「異教」が中心となる世界を目指していたのである。そのために、市民の皇帝というイメージを再構築しようと試みた。ユリアヌスの描く皇帝像はシンプルなものであり、威張らず、豪奢にせず、市民と身近な存在であった。一方でキリスト教への優遇政策を廃止している。彼は弾圧などの暴力的手段に訴えることなく、「異端」とされた者たちに恩赦を与え、キリスト教内部の対立を喚起し、巧妙に宗教界の抗争を誘導した。ユダヤ教エルサレム神殿の再建許可を出したのもそのためであった。これらの行動により、永くキリスト教徒からは「背教者 」の蔑称で呼ばれることになる。

「夷講(エビスコウ)大いに祝え背教者 ユリアヌス に 端遊」 

夷講(エビスコウ)が10月の季語です。商売繁盛の神様・夷の祭りです。ユリアヌスは夷も認めたと想像しました。彼はサーサーン朝へ遠征しましたが、投槍を受け陣中で没しました。死に際して「ガリラヤ人よ、汝は勝てり」と言葉を遺したという伝承があります。ガリラヤはナザレのイエスが宣教を始めた場所です。チョッとキリスト教側からの伝承のような感じです。

習字は、全体にあくどい感じで、「夷講」は直線的に、「大いに祝え」は大胆に、「背教者」は曲線的に、というつもりで書きました。


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猿酒 102 ディオクレティアヌス

 朝、一人で海沿いをロングランして来ました。シャワーを浴びて体重を測ったら51.2kgと先週より2kg減っていました。それから嫁さんの歯の治療に合わせて、11月4日・5日と石垣に行くことにしました。久しぶりに飛行機の予約などをしました。

「世界史1200人」102 ディオクレティアヌス(244〜313)

一兵卒から出世し、軍に推戴されて皇帝に即位した。帝国の安定化に努め「3世紀の危機」と呼ばれる軍人皇帝時代を収拾した。その過程で「専制君主政」を創始し、自分を入れた正帝2人と副帝2人で、四分統治を始めた。ディオクレティアヌスは民衆が国への帰属心を失いつつあることを危惧し、皇帝権力の強化と愛国心の定着を図るため、皇帝崇拝とローマの神々を礼拝することも義務づけた。当初は、ローマの神々を礼拝すればキリスト教の信仰を保ってもよいとする政策を行った。しかしキリスト教徒は皇帝崇拝とローマの神々の礼拝を無視し、キリスト教徒の兵士が軍から離脱するなど、反逆行為が多発したこともあり、303年にローマ全土に対して、キリスト教禁止の勅令を発した。教徒への抑圧が全土でかつてない規模で行われたため、キリスト教側からは「最後の大迫害」と呼ばれている。このため、「ローマ帝国衰亡史」において再評価されるまでは長年に渡って暴君としかみなされなかった。

「基督め猿酒飲んで寝て待つか ディオクレティアヌス に 端遊」

猿酒が10月の季語です。猿が集めた木の実が、雨露によって発酵した酒です。約1500年もの間、暴君とされたディオクレティアヌスは、猿酒でも飲んで待つしか無かったのでは、と思いました。305年、彼は健康を崩したこともあって退位し、アドリア海に臨むサロナ近郊に宮殿を作って隠棲し、311年に崩御しました。古代のローマ皇帝の中で、退位した例は彼の他にはほとんどありません。ただし、ローマ帝国キリスト教化されて以降は、退位して修道院へという例が多くなります。

習字は、全体に酔った感じて、「基督め」は怒って、「猿酒飲んで」は絡んで、「寝て待つか」は眠くなって、というつもりで書きました。白場を多くしたら字がおとなしくなってしまいました。


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添水(ソウズ) 101 アウレリアヌス

 昨夜、何を寝惚けたのか、夜中に英語の勉強をしました。眠い〜と思いながらも30分勉強し、ふと時計を見ると真夜中でした。そんなこんなで、朝のランはバテバテの感じでした。

「世界史1200人」101アウレリアヌス(214〜275)

一介の軍団兵から昇進を重ね、ゴート族の騎馬隊を撃退する活躍を見せ、騎兵の総司令官を務め、270年、蛮族の侵入・ローマ帝国の分裂という危機的な状況の下、危機に強い優秀な軍人という理由で、軍によって推挙されローマ皇帝となった。再三にわたってイタリア本土へ侵攻する北方異民族に対して、ローマを守る必要に迫られたアウレリアヌスは、王政ローマ期以来となるローマを囲む城壁「アウレリアヌス城壁」を構築し始めた。また、東方属州を支配していたパルミラ王国、西方属州に割拠していたガリア帝国を破り、三分されていた帝国を再統一した。274年、ローマに於いて凱旋式を挙行し、これら一連の功績により元老院から「世界の修復者」の称号を得た。

「修復者粋なお庭に添水(ソウズ)かな アウレリアヌス に 端遊」

添水(ソウズ)が10月の季語です。竹を用い水の力で音を立てて、鳥獣から田畑を守る威し道具です。今は庭園に設えて情緒を楽しみます。攻守巧みなアウレリアヌスの庭にお似合いと思いました。275年、シャープール1世が没した直後のサーサーン朝へ遠征に向かう途中、アウレリアヌスは秘書官の一人を叱責しました。身の危険を感じた秘書官は謀略を仕組み、アウレリアヌスは自軍の将軍に暗殺されました。その突然の死は帝国に大きな衝撃を与え、数ヶ月にわたって皇帝不在の時期が生じたとされます。

習字は、「修復者」はスッキリと、「粋なお庭に」はオシャレに、「添水かな」は流れのように、というつもりで書きました。


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