川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

花粉症 251 藤原頼経

この頃、長い夢を見るせいか、今日の朝も1時間遅く起きてしまいました。 海沿いのランも少し足が重いようです。まあ、気楽に考えて、のんびりしたいと思います。

「日本史1200人」251 藤原頼経(1218〜1256)

鎌倉幕府4代将軍、九条頼経ともいう。頼朝の遠縁であり、北条義時と政子が権力を握り実権はなかった。義時と政子の死後、頼経は反執権勢力に利用され「大殿」と呼ばれるようになり、謀反の疑いをかけられて第5代執権・北条時頼によって京都へ追放された(宮騒動)。日本中で疫病が猛威を振るっていた赤痢のため39歳で京都で死去した。妻は源頼家の娘・竹御所であるが、1234年に難産の末に母子共に亡くなり、源頼朝直系である源氏将軍の血筋は断絶した。

「大殿と呼ばれ浮かれて花粉症 藤原頼経 に 端遊」

花粉症が4月の季語です。ヨイショされてニヤけた顔には、くしゃみ、鼻水、涙の花粉症がピッタリ!・・・の気がします。鹿島神宮の白馬祭は、頼経が関東に下向したときに神託で悪来王を退治したことが起源といわれています。

習字は、「大殿と」は得意げに、「呼ばれ浮かれて」はクネクネと、「花粉症」は弱々しく、というつもりで書きました。


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春の闇 250 三善康信

 朝、一人で海沿いを走って来ました。途中雨に振られ、久しぶりにしっかり濡れました。シャワーを浴びて体重を測ったら53.9kgと先週より0.7kg増えていました。海はビックリするくらい荒れていて、フェリーは欠航になりました。

「日本史1200人」250 三善康信(1140〜1221)

元々は太政官の書記官役を世襲する下級貴族で、算道(算術の研究)の家柄の出身だが、母が源頼朝の乳母の妹であり、その縁で流人として伊豆国にあった頼朝に、月に3度京都の情勢を知らせていた。1180年の以仁王の挙兵の2ヶ月後、康信は頼朝に使者を送り、諸国に源氏追討の計画が出されているので早く奥州へ逃げるように伝えるなど、頼朝の挙兵に大きな役割を果たした。1184年に康信は頼朝から鎌倉に呼ばれ、「公文所」が新築されると、大江広元がその長官となり、康信は初代問注所執事(長官)として裁判事務の責任者となった。

「ふむふむと御ざる御座ると春の闇 三善康信 に 端遊」

春の闇が4月の季語です。月のない夜の闇です。闇の中で京の情勢を探り、頼朝に知らせる康信・・・をイメージしました。頼朝の死後は、2代将軍・源頼家の独裁を抑える十三人の合議制にも参加しました。承久の乱に際しては病身の身で会議に参加し、大江広元の即時出兵論を支持しました。

習字は、「ふむふむと」は盗み聞くように、「御座る御座ると」はチョット得意げに、「春の闇」は怪しげに、というつもりで書きました。


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花吹雪 249 大江広元

 朝、一人で海沿いを走って来ました。自衛隊の方がリラックスして走る姿を思い出しながら真似して走りました。島は爽やかな天気が続いています。

「日本史1200人」249 大江広元(1148〜1225)

公家出身だが朝廷を離れて鎌倉へ下る。頼朝に仕えて政所初代別当となり、守護・地頭の設置にも関わる。頼朝の死後は北条義時、政子のもとで幕政に関わった。承久の乱の際は嫡男・親広が官軍についたため親子相克するが、広元はあくまで鎌倉方に立って主戦論を唱えた北条政子に協調し、朝廷との一戦には慎重な御家人たちを鼓舞して幕府軍を勝利に導いた功労者の一人と記している。情に流されない冷静な人物である。

「官は悪!立て武士(モノノフ)よ花吹雪 大江広元 に 端遊」

花吹雪が4月の季語です。承久の乱は5月です。広元が御家人を鼓舞したのは花吹雪の頃では・・・広元の兄・中原親能源頼朝と早くから親しく、頼朝の代官として万事を奉行し、貴族との交渉で活躍しました。その縁で広元も頼朝の鎌倉へ下り、公文所別当となりました。

習字は、「官は悪!」はねちっこく、「立て武士よ」は強く、「花吹雪」は舞うように、というつもりで書きました。


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囀らず 248 九条兼実

 朝、隣町に行き、二人でいつものコースを楽しく走り、おしゃべりをして来ました。島は爽やかな天気です。

「日本史1200人」248 九条兼実(1149〜1207)

五摂家(摂政・関白に任じられる5家)のひとつ、九条家の祖。摂政、関白、太政大臣を歴任した。頼朝との協力関係を築き、頼朝が征夷大将軍に任じられるように計るが、朝廷内で孤立し、頼朝とも対立して失脚した。公私40年にわたる日記「玉葉」は貴重な資料である。兼実は内心の不満や批判は日記の中だけに止め、それを公言したり、対峙するようなことは決してしなかった。失脚した兼実は二度と政界に復帰することはなく、浄土宗の法然を戒師として出家し深く帰依するようになった。法然の著作「選択本願念仏集」は兼実の求めに応じて、法然が著したものである。

「一切は南無阿弥日記囀らず 九条兼実 に 端遊」

囀る(サエズル)が4月の季語です。求愛・縄張争いで雄鳥が鳴くことです。「口ではお念仏、ケチ愚痴は日記に」を「南無阿弥日記」と洒落たつもりですが・・・兼実は法然が唱える悪人正機の教えに少々信がおけませんでした。自分達のような俗人や、戒を破った僧が本当に念仏を唱えることで極楽浄土に往生できるのか確かめようとしました。そこで法然は孫弟子の綽空(後の親鸞)を指名し、あまり乗り気ではなかった綽空を説得して兼実の娘の玉日と結婚させ、兼実を安堵させました。

習字は、「一切は」は強く、「南無阿弥日記」は控えめに、「囀らず」ははしゃいで、というつもりで書きました。


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春の駒 247 畠山重忠

朝、一人で海沿いを走って来ました。どうしてか足が重くて、やっと最後に元気が出ました。 

「日本史1200人」247 畠山重忠(1164〜1205)

有力御家人。頼朝に従い、戦場で常に先陣を切り活躍する。「坂東武士の鑑」と称された。一ノ谷の戦いでは、源義経と共に鵯越の逆落としの奇襲に参加したが、埼玉県の畠山重忠公史跡公園には、馬を損ねないように、背負って崖を駆け下りたという姿が銅像として残っている。頼朝の死後の1204年、重忠の息子の重保が北条時政の後妻・牧の方の娘婿である平賀朝雅と酒席で争った。牧の方はこれを恨みに思い、重忠謀反を訴えさせ、将軍・実朝は討伐を命じた。数万騎が自分に差し向けられたことを知った重忠は覚悟を決め、わずかな兵で奮戦し討ち死にした。

「背負われて恥ずかし怖し春の駒 畠山重忠 に 端遊」

春の駒が4月の季語です。一ノ谷の戦い新暦の3月20日です。人望のあった重忠を殺したことで、時政と牧の方は御家人たちから憎しみを受けることになり、同年、時政と牧の方は失脚して伊豆国へ追放され、平賀朝雅は殺されました。

習字は、「背負われて」はとまどって、「恥ずかし怖し」は意味のように、「春の駒」は強く、というつもりで書きました。


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馬蛤(マテ) 246 三浦泰村

土曜日・日曜日は宮城谷昌光の「重耳」と司馬遼太郎の対談集を代る代る読んでいました。今日の朝は一人で海沿いを走って来ました。島は穏やかな天気が続くようになりました。

「日本史1200人」246 三浦泰村(?〜1247)

頼朝に従った有力御家人評定衆となり4代将軍・九条頼経に接近して親密な間柄になり、さらに弟・光村が5代将軍・九条頼嗣との仲を深めるようにまでなったため、5代執権・北条時頼から危険視されるようになる。泰村は武威に優れた人物であったが、他の御家人と諍いを起こすなど、政治家としての立ち回りには拙い部分があった。また、安達氏が北条氏の外戚になったことで、枢要な地位が三浦から安達へと推移していったことを把握できていなかった。やがて、時頼と三浦氏排斥派の安達景盛らの軍勢と戦い、一族とともに自害する(宝治合戦)。

「見え見えの周り見えない馬蛤(マテ)の殿 三浦泰村 に 端遊」

馬蛤(マテ)が4月の季語です。マテ貝のことです。砂泥地に垂直に棲息します。穴に塩を入れると飛び出し、そこを捕まえます。何となく立ち回りの拙い硬直気味の泰村に似ています。有名な話として、宝治合戦の直前、一旦、和睦が成立しかけていた時、緊張のあまり湯漬けを嘔吐したということです。これは恐怖からではなく、気を働かせ過ぎたためとされています。

習字は、「見え見えの」は明るく、「周り見えない」は悲しく、「馬蛤の殿」はチョットおバカに、というつもりで書きました。


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義士祭 245 平頼綱

 朝、一人で海沿いを走って来ました。帰ってシャワーを浴びて体重を測ったら53.2kgと先週より0.4kg減っていました。嫁さんは小学校の入学式に招待されて行きました。

「日本史1200人」245 平頼綱(?〜1293)

内管領(北条氏・宗家の執事)。9代執権・北条貞時に讒言して、霜月騒動で安達氏を滅ぼす。しかしその後の独裁的な恐怖政治に不安を抱いた貞時の命によって誅殺された(平禅門の乱)。室町時代に禅僧の義堂周信が、地元の僧から聞いた話では「昔、平左衛門頼綱は数え切れないほどの虐殺を行った。ここには彼の邸があり、彼が殺されると建物は地中に沈んでいった。人々はみな、生きながら地獄に落ちていったのだと語り合い、それ故に今に至るまで平左衛門地獄と呼んでいる」と、頼綱の死後80年以上経っても、その記憶が伝えられていた。

「地獄では執事の丸焼き義士祭 平頼綱 に 端遊」

義士祭が4月の季語です。本来は赤穂義士の祭りですが、ここでは244の安達泰盛一族の祭りとしました。執事は羊のように優しかったら・・・後深草院二条が記した「とはずがたり」によると、「将軍御所の粗末さに比べ頼綱の宿所は、室内に金銀をちりばめ、人々は綾や錦を身にまとって目にまばゆいほどであった」といいます。

習字は、「地獄では」はチョット楽しそうに、「執事の丸焼き」は大胆に、「義士祭」はスッキリと、というつもりで書きました。


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