川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

春闘 103 藤原兼通

 今日はアレサ・フランクリンを聴きながら、ロングランをして来ました。彼女の叫ぶような歌はゴスペルのようで心が静かになりました。それから、遠くを旅している気持ちになりました。嫁さんにもこんな気分を味あわせたいなと思いました。

「日本史1200人」の第103番の藤原兼通(925〜977)です。

藤原師輔の次男。972年に兼通はようやく権中納言に進むが、弟の兼家は大臣の座を目前としていた。長男の伊尹が摂政を辞任すると、兼通は存命中だった時の妹の安子の「必ず兄弟の順序に従って」の書付を円融天皇に見せ、天皇は亡き母の遺命に従うこととした。977年、重い病に伏したが四人に支えられて参内し、左大臣頼忠をもって自分の後任の関白とした上で、兼家を降格してしまった。天皇もその気魄に逆らうことができなかった。

「下りおれ麿が一番春闘じゃ 藤原兼通 に感じて」

春闘が3月の季語です。ウィキでは延々と兄弟喧嘩をしています。春≒繁栄への闘いと屁理屈を付けました。先の「四人に支えられて参内し」の前段には・・・兼通が重病になると、車がやって来るとのことで、弟が見舞いに来たのかと待っていたところ、車は門前を通過して内裏へ行ってしまいました。兼通がもう臨終だと思った弟は、早速天皇に後任を頼むつもりだったのです。

習字は、「下がりおれ」は憎々しげに、「麿が一番」は子供っぽく、「春闘じゃ」は派手に見栄をきって、というつもりで書きました。


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