川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

三椏の花 225 北条義時

 朝、一人で海沿いを走って来ました。ゆっくりと楽しいを優先した走りをしました。シャワーを浴びて体重を測ったら53.9kgと先週より0.9kg増えていました。この頃、新聞を見るのが辛い感じです。

「日本史1200人」225 北条義時(1163〜1224)

鎌倉幕府2代執権。北条時政の子であり政子の弟。父・時政は2代将軍・源頼家が病に倒れると、頼家の将軍位を廃して伊豆国修善寺へ追放し、12歳の実朝を3代将軍に擁立して実権を握り、さらに実朝を廃して朝雅を将軍にと画策した。ここに至り義時は姉・政子と協力し、時政を伊豆国に追放し、父に代わって政所別当の地位に就いた。また侍所別当和田義盛を滅ぼし、侍所と政所の別当を兼ねて権力を手にすると以後は、執権は北条氏に世襲されることになった。1219年、将軍・実朝が頼家の子・公暁によって暗殺され、源氏の正統が断絶したことを契機とする、後鳥羽上皇による承久の乱にも完勝し、最高権力者としての地位を確立した。乱の翌年には無官となり、62歳で急死している。

「配流せよ三椏の花目に痛い 北条義時 に 端遊」

三椏(ミツマタ)の花が3月の季語です。三椏の名は枝が三つに分かれるためです。花言葉「肉親の絆」を「父・上皇の配流」に対比しました。敗北した後鳥羽上皇は倒幕計画は自分の考えではなく近臣が勝手に起こしたものであると弁明しましたが、幕府は極めて厳しい態度を取り、隠岐島に配流しました。

習字は、「配流せよ」は強く、「三椏の花」は大胆に、「目に痛い」は柔らかく、というつもりで書きました。


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