川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

熱燗 390 中川清秀

土曜日・日曜日は新聞と歴史の本を読んで過ごしました。朝はいつものように善福寺川沿いを走ってきました。

「日本史1200人」390 中川清秀(1542〜1583)

武将、通称は瀬兵衛(セヒョウエ)。初めは池田勝正に仕え、織田信長が上洛してくるとそれに従った。後に信長が荒木村重を摂津の国主に据えると清秀もそれに従った。そして村重が信長に対して反旗を翻すと、共に信長に敵対した。清秀の武勇を欲した信長は破格の条件で寝返りを工作したが、清秀は返事をせずに村重にありのままを伝えた。村重は「荒木の武運は決した。中川殿もすぐに織田に付かれよ」と言うので清秀は織田に従った。本能寺の変の後は羽柴秀吉について、山崎の戦いで活躍した。しかし、賤ヶ岳の戦いにおいて、圧倒的兵力の前で奮戦虚しく戦死した。中川氏は小さな武士だったが優れた武勇で立身し、最大で12万石を領する大名家へ導いた。その武勇は鬼瀬兵衛と讃えられた。

「熱燗を干してニヤリと負け戦 中川清秀 に 端遊」

熱燗が12月の季語です。清秀は「名を惜しむ」戦国の代表選手かな・・・山崎の合戦後、秀吉は馬上から「瀬兵衛、骨折り、骨折り」と言いつつ去りました。清秀は「筑前、早くも天下人になったつもりか」と怒鳴りました。秀吉と清秀は義兄弟の契りをしていたのです。

習字は、「熱燗を」はスッキリと、「干してニヤリと」はさっぱりと、「負け戦」は強く、というつもりで書きました。


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