川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

出目金 507 山名祐豊

朝、善福寺川沿いを走ってきました。今日も小唄・端唄を聞きながら走りました。小唄・端唄を口笛で吹けたらチョッと粋かなと、思ったのですが、ずいぶん先の話です。

「日本史1200人」507 山名祐豊(スケトヨ;1511〜1580)

戦国時代の武将、戦国大名但馬国守護。17歳で山名氏の家督を継ぎ、1540年には幕政に参画していた。山名氏は2つの守護家に分裂していたため統一し安定を計った。1569年、木下秀吉の侵攻を受け祐豊は領国を追われたが、堺の豪商・今井宗久の仲介で織田信長に直接会い、加勢することを誓い領土を認められ、有子山城主に復帰し、織田氏が敵対する毛利氏と戦った。1574年、甥や重臣が毛利方と和睦したため、翌年には祐豊も毛利氏と和睦・同盟を結んだ。信長は状況から直ちに行動を起こさなかったが1580年、秀吉率いる大軍勢が居城である有子山城を包囲すると開城を余儀なくされ、祐豊も間も無く病没した。

「出目金の仇なウィンクご開城 山名祐豊 に 端遊」

出目金が5月の季語です。祐豊は目が出るくらい、どっちにも惹かれたのかな・・・三男の堯熙は祐豊と意見が合わなかったので、開城前に隣国へ逃れ、後に秀吉により取り立てられ馬廻衆となりました。次男の義親も信濃国へと逃れ子孫もいるといいます。

習字は、

「出目金の」は泳いでるように、「仇なウィンク」はそれなりに、「ご開城」は弱く、というつもりで書きました。


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